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ネットワーク通信バックナンバーREPORT

 No.122(抄)

目     次

◇忘れ残しのあれこれ⑯
難波一夫

◇公開学習講演会
「前川喜平さんと考える旧統一協会とか低教育応援条例について」に参加! 岡崎 茂明

◇モズに寄せて(2) 相談員 山本和弘
◇「奇跡の町」異聞  山本和弘
◇私の一冊 相談員 秋山 正美
◇いじめを考える〈PARTⅢ❹〉
相談員 福田 求(”ののはな”教育相談)


忘れ残しのあれこれ⑯
難波一夫

「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ
ぼくたちの町内は、1丁目から4丁目まであり、九十軒ばかり。公務員の方が多かったようです。
丁目ごとに隣組が組織されていました。町内会には年間行事が用意され、回覧板には月や週の計画が載っていました。
国防帰人会や愛国帰人会の主催するバケツリレーの訓練、防空頭巾やモンペの製作講習会、千人針、戰闘幅やゲートルの着用・普及などのことが紹介されていました。
そして、絵入りで「ぜいたくは敵だ」、「進め一億火の玉だ」、「米英撃滅」、「子宝報国」などが必ず載っていました。
ぼくらは、いつも楽しいこと、面白いことはないかなと計画に見入っていました。
一番楽しみだったのが、時に開かれる演芸会でした。そこでは町内の人たちが自慢のノドやかくし芸を披露するのでした。
その中で面白かったのは、あるお兄さんの落語でした。
おかしくて、おかしくて、笑いました。
それは「じゅげむ、じゅげむ」
腹を抱えて笑いました。
じゅげむじゅげむごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょ すいぎょうまつ うんらいまつ・・・
仏教のありがたい言葉が並んでいると言われても、なんのことかさっばりわからず、でも、お兄さんの語り口にすっかり引き込まれてしまったのです。
食う 寝るところ 住むところ・・・パイポパイポのシュウリンガン・・・ポンポコピー のポンポコナの長久命の最助

それからは、「じゅげむ」の長い名前を全部覚えたくて、いろんな人に尋ねたのですが、近くに教えてくれる人はいませんでした。
それで、最後に勇気を出して出演したお兄さんに聞きにいきました。するとお母さんが、「息子は召集令状が来て戦地へ行ったんよ」と教えてくれました。
その後会うことはありませんでした。
銭湯
ぼくたちの住んでいた市営住宅には、風呂がありませんでした。その代わり、町内専用の銭湯がありました。
小学六年のぼくは、思春期の入り口に立っていたので、自分の体の変化に関心を持っていました。
中でも「性」への興味と関心が強くなっていました。
衣服を脱いで、入つて来る男子の中学生の体をよく眺めていました。前を隠して入ってくるのですが、ちらりと見えます。そして、必ず「生えているか、まだか」といちいち確認したものです。
中学生は風呂に来るのは、一番初めか、終い風呂が多かったようでした。なぜか、近くにあった中学校、商業学校、小学校の先生が多くおられたので、できるだけ顔を合わせないようにしていたのではないかと推測しました。
僕も同調して、一番風呂か、終いの湯にしていました。中学生同士は、はだかの付き合いにはならなかったようでした。

子どもの遊び
その頃の子どもの遊びというと、思い出せるのは、べー独楽、パッチン(めんこ)、チャンバラ、肉弾、おしくらまんじゅう、なが馬とび、缶けり、竹馬、などだったでしょうか。

べー独楽
古バケツの上にゴム製の古合羽を敷き、べ-ゴマをぶつけ合って勝負するのです。
勢いよく回して相手の独楽をはじき出せばそれが自分のものになるのです。 不器用なぼくは、回すのが精一杯でなかなか勝てません。
勝つための工夫はないものか。
独楽のまわりを削つて角を作つてみたり、心棒を短くして下から攻めるように工夫したりしました。ときに勝つこともありましたが、手持ちの独楽が減るばかりでした。

パッチン(めんこ)
バッチンは、兵隊さんの生々しい戦開の状況を絵にしたものがたくさんありましたが、好きになれませんでした。相撲取りやチャンバラのものが人気でした。 なかでも双葉山の土俵りのものは、仲間の評価も高く、貴重なものとして自慢していました。傷めないように、使わないように、まるで宝物のように大切に持っていました。
パッチンでもなかなか勝てません。どんどん取られていくのを見るに見かねて三歳年下の弟が「替わってやろうか、この下手くそ!」と毒づいてくるので、余計勝てなくなりました。
女子はおはじき、丸とび、ゴムだん・・・などでした。
当時は子どもがいっばいで、大きい子や小さい子が一緒になって遊んでいました。遊び呆けて日暮れの頃は疲れきっていました。
その時だけは戦争のことも、勉強のこともすっかり忘れていました。 なんば かずお

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公開学習講演会
「前川喜平さんと考える旧統一協会とか低教育応援条例について」に参加!
岡崎 茂明

1月28日タ、岡山国際交流センターで前川元文科事務次官講演会が開催され、福祉有償運送・ガイドへルバー制度を利用し、元中学校社会科のS先生も誘って三人で参加しました。
前川さんのお話を聞くのは三度日。残念ながら講演は、マイクの音量が小さく、難聴もあり、聞き取りにくかったです。
講演の後、軽い食事にでもということになり、近くの焼き鳥屋を覗くと満席。 そこで、飛鳥という瀬戸内料理のカウンターに座り、懇談。前川さんたちもどこかに行つたろうなぁ・・・ ぼつぼつ帰ろうか・・・と、腰を上げた時、Sさんが、「あれ、前川さんが来とる・・・!」、トィレに立たれた前川さんを見つけたのです。
三人は、前川さんを囲んでいる主催者グループの座席に急ぎました。そして、握手、 「年が明けてから岡山にお見えになるのは二回目ですね。 マイクの音がちょっと小さく、聞き取りにくかったのが残念」と岡崎。Sさんは、 「夜間中学を作る運動に関わっています・・」などと、言集を交わしました。
こんなラッキーなことがあるのか!ほろ酔い・ルンルン気分で帰ってきました。
さて、You Tube ライブ配信された講演動画、やっばり音が小さかったのです。

前川さんは、大手企業の御子息、妹さんは、中曽根博文氏の妻!権力の中枢に身をおかれていても、不思議ではない方だと思います。
それだけに、前川さんの人柄に心を引かれ、今回も優しい語り口に感動し、励まされ元気をいただきました。

声を大きくしたデータができましたので、関心ある方聞いてください!   おかざき しげあき

声を大きくしモノラル変換した前川講演
☆mp3データ(1時間17分 73011キロバイト 5月16日lまでダウンロード可能
無料大容量 ファイル転送サービス GigaFile(ギガファイル)便

音楽型式変換データは、 70 OMc d rに納まり、カーステレオなどでも聴けます。

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モズに寄せて(2)
相談員 山本和弘

前回の続きです。「満蒙開拓団」について「デジタル大辞泉」はこう解説しています。

まんもう‐かいたくだん【満蒙開拓団】満州事変後、日本が満蒙地区に送りこんだ農業移民団。昭和七年(一九三二)に第一次移民が送り出され、昭和二〇年(一九四五)敗戦時には約三二万人がいたといわれる。多くがソ連・満州国境地帯に入植し、中国人・朝鮮人の既耕地を収奪する結果となった。第二次大戦敗戦直前、ソ連の対日参戦で関東軍から置き去りにされ、多大な犠牲者を出した。満州農業移民。

 満蒙開拓青少年義勇軍を題材にしたアニメ-ション映画『蒼い記憶 満蒙開拓と少年たち』(一九九三年公開)が、その悲劇をよく伝えています。満蒙開拓団を最も多く送り出した県は長野県で、資料によっては三万八千人とも三万三千人ともされますが、送出の運動は全国に及び、岡山県からも、二九〇〇名前後が送出されたと言います。

二〇一五年八月二四日付「山陽新聞」にこんな記事が掲載されており、私の郷里「美作」にも関係するので、切り抜きして保存しています。一部を引用します。

中国・満蒙開拓団跡ツアーに同行 今も残る「美作」、消える証言者

戦時中、旧満州(中国東北部)へ日本人移民が送り込まれた満蒙(まんもう)開拓団の足跡をたどるため、八月七日から一二日まで、近現代史研究家の青木康嘉興譲館高講師(63)らの訪問団が中国黒竜江省などを巡った。戦後七〇年がたち、戦争を語る証言者や建造物が中国の地でも消えつつあることを実感した旅。一行に同行、現地の今をリポートする。

トウモロコシ畑が続く地平線に日が傾き始めた。日没まで時間がない。ロシア国境に近い黒竜江省の樺南県。目的地の七虎力(しちこりき)開拓団跡を目指し、近隣村民のバイクの先導でツアーバスが広野を走る。

「あった!」。諦めかけたころに、青木さんの声が上がった。道沿いの道路標識に今も残る「美作」の文字。同開拓団美作郷があった名残だ。

■岡山県から入植

七虎力開拓団は、近畿中国地方から一七八戸六二六人が入植していた(西崎忠雄著「七虎力村」)。特に岡山県からの入植者が多く、美作のほか、岡山、吉備津、備前の各郷に分かれて出身地別の集落を形成していた。

今では集落ごとなくなっている所もあり、当時の場所を特定することは難しい。だが、事前に「美作の地名が残っている」と残留孤児だった中国帰国者から証言を得られたため、訪問団として初めて入る同開拓団集落の目標にしていた。

美作郷跡にある集落は、「七一村」と地名を変えたが、地元住民によると、今でも「美作(メイツォ)」の旧地名を使うという。当時、岡山出身の開拓団員が始めた水田の耕作も続いている。村の中には屋根が崩れかけたり、改修された旧開拓団家屋が三軒点在するのみだ。

旧満州の開拓団は、終戦直前に参戦したソ連軍に追われ、農地を捨てて逃げ惑い難民化した。七虎力開拓団では暴徒の襲撃や集団自決が相次ぎ、四〇〇人が死亡したとされる。

だが、村の古老・憑甲臣さん(73)は「日本人がいたことは聞いているが、当時を知る住民はもういない」と話す。

■住民と交流

七虎力開拓団跡から一〇〇キロほど離れた林口県の竜爪(りゅうそう)開拓団跡も訪れた。岡山県出身者でつくる日の出郷は、ツアーに参加した小林軍治さん(72)=岡山市=の生まれ故郷だ。

「満州第六次龍爪開拓団の足跡」(船越美智子著)によると、同開拓団の在籍者は、一二五四人。終戦当時二歳だった小林さんは、生還者五七五人のうちの一人。

今でも「竜爪(ロンジャオ)」と呼ばれる村の訪問は、小林さんにとって一九八三年に父親と来て以来五回目。到着すると大勢の住民が集まり、開拓団時代の古い家屋に案内してくれた。(以下略)

記事に登場する青木康嘉氏は、元高校教師で、私とは世代も近く、職場のご縁も浅からぬ間柄。長く、植民地時代の日本と中国、また韓国・朝鮮の歴史を掘り起こす活動を続けて来られました。また、小林軍治氏は、若い頃から親しくしていただき、退職後も高退教副会長として大変お世話になりました。記事にもあるように、中国引き揚げ者というご自身の体験から、近年は、中国残留孤児・帰国者の生活・権利の問題や日中友好の運動をライフワークとして来られました。残念なことに、昨年急逝され、悲しみに堪えません。

蛇足ながら、この新聞記事を書いた高見幸義氏という同行記者の名前に見覚えがあります。たぶん、(ほぼ確実に)、今から三十数年前、彼は高校生で、私の授業を2年間ほど受けたはずです。高校時代も新聞部で辛口のコラムなどを書いていました。生徒会、社会問題研究会などの活動にも熱心にとりくんでいた様子を記憶しています。彼が学生の頃、東京の街中でばったり出会ったこともありました。新聞社入社間もない頃歓談して以来のご無沙汰ですが、立派な仕事ぶり成長ぶりに、感慨を覚えたことでした(まったくの余談です)。自分に誇るものがないせいで、知り合い自慢、友達自慢の習癖が身につきました。

写真はジョウビタキ。ジョウビタキの「ジョウ」は「尉」。「 老翁。おきな。特に能で、老翁の役。また、それに用いる能面」のことだそうです。オスの頭が銀色で、白髪に見えるところから名づけられました。ヒタキは「火焚」で、カチカチと、火打石をたたくような音を立てます。翼の白斑から「紋付き鳥」ともよばれます

オス

次回に続きます。


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「奇跡の町」異聞
山本和弘


先日(222日)、岸田首相が岡山県北の奈義町を視察に訪れたというニュースがありました。たとえば「日テレニュース」はこう報じています。

岸田首相は「少子化対策・奇跡の町」と呼ばれる岡山県奈義町を訪れ、子育て支援の現場を視察しました。 岸田首相は岡山県奈義町を訪問し、子育て中でもワークシェアで仕事ができるようにする「しごとコンビニ」事業の現場などを視察しました。 奈義町は地域ぐるみで子育て支援を行った結果、合計特殊出生率が全国トップクラスで、「少子化対策・奇跡の町」として注目されています。 岸田首相「子ども政策強化のためには、施策の拡充ももちろん重要だが、あわせて社会全体の意識を変えていくことが重要」・・・

 

ところで奈義町は、私の郷里にほど近く、親近感を覚えながらも知らないことも多かったので、今から八年余も前、郷里の友人数人で「視察(笑)」したことがありました。拙ブログの記事から一部引用します。

そのかみの十五の吾も仰ぎ見し大き銀杏はとこしえにありhttps://kazsan.blog.ss-blog.jp/2014-11-23

(前略)陸上自衛隊駐屯地と日本原演習場があり、日米共同軍事演習の舞台ともなっている「基地の町」という姿が、奈義町の「もう一つの顔」です。平成の大合併の時、奈義町は、近隣自治体との合併の道をとらずに、町制存続という独自の道をあゆんだことで注目されました。その決断を潔しとし、人々は心に快哉を叫んだものでしたが、反面、「自衛隊から金が落ちるからできたハナシ」と、少々苦い思いにとらわれる面も、正直あったでしょう。

そんな内情も聞いてみたいということで、(中略)縁故を頼ってお呼びしたのは、長い間「勝田郡平和委員会」の中心として、基地や平和の問題に積極的に取り組んでこられ、議会内最長の5期20年に渡って町議をつとめ、現在は副議長の任にあって、町政全般に通暁しておられる森藤政憲さんでした。森藤さんは、私達一行とほぼ同世代か、ちょっと先輩という年齢ですが、若々しくて行動的、かつ温厚誠実な紳士で、奈義町の歴史やありのままの実状、課題を、資料も準備してざっくばらんに話してくださいました。

詳細を記録すれば、論文が書ける内容ですので省きますが、印象に残ったことだけをメモ的に箇条書きしておきます。

1)町の第一のセールスポイントが、「自然と芸術の調和」。これを一番に持ってくるとは、エライ。つくづく感銘を覚えました。これなくして、しあわせは成り立ちませんから。

2)「子育て応援宣言」のまち。保育料減額、医療費は高校生まで無料、町独自の育英奨学金、高等学校就学支援金、などなど、住民の要望を踏まえたこまやかな子育て支援策のあれこれ。

3)町営住宅、分譲地、若者定住促進住宅、雇用促進住宅など、手厚い移住支援。

4)無料福祉バス(町内各コースを一日3回巡回)の運行。高齢者に優しい。

5)主な産業は?農業だそうです。サトイモ、黒豚、奈義ビーフ、米粉、、、町の特産物を町を上げて育てる姿勢がはっきりわかり、道は険しくとも、やりがいと希望を感じます。

6)自衛隊関連大金への依存度は、一般会計歳入の6.7パーセント。多い年でも10パーセント。---これで、合併しなくても町制が維持できるのだから、ほかの町村だって独立の道を歩むことが可能だよなと思いました。その方が遙かに、住民のかゆいところに手が届く、手厚い行政サービスができるはずなのに、、。

7)自衛隊基地への賛否は、世論が二分され、賛成がやや多いが、集団的自衛権への賛否は、反対が大きく上回るアンケート結果。自衛隊員家族の回答もふくまれているのでしょう。他地域に比べて不安と恐れは切実で、現実的なのだなあ。(後略)

遅ればせとは言え、岸田首相が注目してくださったのは大変結構ですが、「奇跡の町」と特別視するのはお門違いというものでしょう。むしろ特別な「奇跡の町」ではなく、「住民こそが主人公」を大切にし、住民の切実な声に応えて思い切って手厚い行政サービスをすすめるという、本来あるべき「当たり前の町」なのではないでしょうか。この当たり前を国全体に広げることが、少子化対策にとっても有効であることは、これまた当たり前。二〇一四年の記事を再読してみて、改めてそう思わされます。

岸田首相は「施策の拡充ももちろん重要だが、あわせて社会全体の意識を変えていくことが重要」とおっしゃったそうですが、「社会全体の意識を変えていく」ことは、経済的にも心理的にも安心して出産・子育てでき、誰もが未来に希望の持てる社会を具体的に展望することと不可分でしょう。行政の長である岸田さんのつとめは、「社会全体の意識」の変化を待つことではなく、出産・子育てに困難を覚えている一人ひとりの声に真摯に耳を傾け、社会を挙げて困難の除去に努めるとのメッセージを発し続けながら、まずは「施策の拡充」に努力することにこそあるのではないでしょうか?

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私の一冊 
相談員 秋山 正美


新日本出版社2022年初版
工藤勢津子著「黄昏にやさしく」

新聞の新書案内で興味を持つたので、早速購入して読んでみました。この本は、「女性のひろば」に二〇二一年四月~二〇二二年九月に連載されたものです。
自分ではまだまだ若い(?) と思つていましたが、めでたく医療費自己負担二割になり、この帯の「高齢期」とか「老後」という言業も現実味を帯びてきました。
退職後、すぐにネットワークの相談員になり、地域でのボランティアや見守り活動などにも取り組んでいます。どのように対応したらよいかと悩むことも多いですが、退職後の生き方としては多くの方の支えで、私自身が充実していると感じています。
「黄昏にやさしく」では、青森出身の深沢弥生の目を通して物語が進んでいきます。弥生は、「介護保険制度が始まった二〇〇〇年にケァマネジャ-になった現職のケアマネです。正式な名称は「介護支援専門員」です。定年退職をした夫との二人暮らし。ケアマネとして地域の利用者を訪問しながら、色々な方との出会いを通して彼女自身も成長していくし、彼女の言葉を通し介護や社会福祉の置かれている実態を垣間見ることができます。また、利用者の人間らしい老後の生き方にも触れることができます。夫婦の話す機会は多くはないのですが、少ない言葉になかに信頼を感じる場面があり、人ごとではなくほっとします。 どのように老い、どのように定年後の暮らしをするか弥生の夫が「定年後は何にもしないでぼおと暮らそうと思っていた。・・・ 自然農をやらせてもらうことになった。 人生最後に儲からないことをやってみる、というか人生最後だからできるというか・・・・」と語す場面は勇気づけられます。
弥生が、訪問活動する中で、わたしは「ユマニチュード」という言葉を初めて聞きました「人間らしさを尊重する」という意味を表し、三十数年前にフランスで生まれ、日本でも普及されつつあるケア法で「見つめ触れて語りかけて」 というケアの方法です。
「愛して信じて待って」という子育て・ 教育相談ネットワークと相通じるなと思ったものです。
「このケア基本は、ひとつ。頭の上から見下ろして話さない。同じ目の高さで話しかける。腕もいきなり上からつかんだりしてびっくりさせない。下からゆっくり包み込むようにして、着替えも、やさしく見つめて語りかけながらやっていく。・・・ぜんぶ、大切に思う人の尊厳をだいじにしようとすれば、しぜんに導かれる行為だと思うのよ」と母親の介護をしながら暮らす江里子の言葉は、子育てや支授活動、日常-生活すべてに通じると思えた。乳幼児の頃から、子どもの日を見て語りかけいっしょに少しでもできるようになったら褒めてと。人との接し方は、赤ちゃんから高齢まで結局は同じなんだと、つまり、相手を大切に思うことなんだとあらためておもいます。
ハグを七秒間するとオキシトシンという幸せホルモンがでるんだそうです。 孫がお母さんに抱かれるとスーッと顔がやさしくなる。これもオキシトシン かしら。弥生は、利用者さんの家族に向かって、「ハグが照れくさかったら、手を握ったり肩や背にそっと手を触れるだけでもいいんです。ノンバーバルコミュニケーションというのだそうです。言葉だけに頼らない、心をかよわせる対話法。話すとききくとき、目をみて、うなずいてあげてください。なにがあっても、ぼくがついているからね、 大丈夫だよって気持ちが伝わればうまくいきます。医術的にもむかしから、手当というでしょう。きっと掌から伝わるものがあると思います。いいといわれていること、なんでもやってみましょうよ」と。

弥生と一緒に介護現場にいるようだったり一緒に悩んだりして、久々にいい本に出合えたというのが率直な感想です。あとがきを読んで、「ああそれで」と納得したところもたくさんあります。 小説でありながら、作者の体験があったからこそです。ぜひお勧めします。

あとがきより
連載期間中、新型コロナウィルスのパンデミックに遭遇した。
高齢者が窮地に追いこまれた。生きがたい環境に取り囲まれている「先進国日本」の高齢者。愛する家族や知人と切り離され、肌を触れ、見つめあいながらぬくもりをたしかめ、こころを重ねることが禁じられた。それまでのケアが受けられなくなったお年寄りと関係者の苦悩が、脳裏を離れなかった。 コロナ禍の一年ほど前に逝ったアルハイマ-型認知症の母との暮らしで、みつめ、触れ、話し、抱きあうことがどんなに大切かを実感していただけに、なおさらだった。わたしの描く小説世界が現役は反映しない絵空事と感じられないか、との懸念をぬぐいえなかった。(中略)
「老い」とその先の「死」は、誰の身にも訪れる。しあわせな「老後」とはどのようなものであるだろう。人生百年時代といわれるのに、社会保障制度の貧しい、忙しすぎ、効率と利潤追求ばかりが優先される日本。避けてとおることのできない「最期」を、わたしらしくまっとうしたい。できうるかぎり、四季折おりの花を愛で、季節のうつろいを味わいながら、出会いをたいせつに、ていねいに暮らしたい。

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いじめを考える〈PARTⅢ❹〉
相談員 福田 求(”ののはな”教育相談)


シリーズ「いじめを考える」 のページにまとめて掲載しています。

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