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「ネットワーク通信」連載記事あ・ら・か・る・と

 

 無謀な世界一人旅   相談員 正保 宏文


ネットワーク通信NO84~No100に連載され好評を博した相談員 正保 宏文さんの世界旅行記「無謀な世界一人旅」を、ホームページ用に再編集して掲載します。(随時更新中

 目次
無謀な世界一人旅①
無謀な世界一人旅②
無謀な世界一人旅 ③
無謀な世界一人旅④
無謀な世界一人旅⑤
無謀な世界一人旅 ⑥

無謀な世界一人旅 ⑦
無謀な世界一人旅 ⑧
無謀な世界一人旅⑨
無謀な世界一人旅⑩
無謀な世界一人旅⑪
無謀な世界一人旅⑫
無謀な世界一人旅⑬
無謀な世界一人旅⑭
無謀な世界一人旅⑮
無謀な世界一人旅⑯
無謀な世界一人旅⑰
無謀な世界一人旅⑱
無謀な世界一人旅⑲


無課な世界一人旅① ~夢を追い続けて~


高校一年生の時、教室の片隅においてあった「高一コース」という雑誌の記事を読んで、小生もゆくゆくは世界各地に行ってみたいと思うようになった。 しかし、小生は、高校を休学して外遊する勇気もお金も言語力もなく、その思いは頭の隅に入れたままで高校三年間は無事に過ぎていった。
そして、働くようになったら世界を股にかけて商社マンとして活躍してやろうなんてことを考えていたが、それもかなわぬまま時は過ぎていった。
五〇才の時、西安行きのツアーに一人参加して「夢」という文字の掛け軸を買った。そして、自分の「夢」をどう実現していくかということを考えた。そのとき思いついたのが、「国連に加盟している国が一九二ヵ国あるので、その半分の一〇〇ヵ国を回る」そのことを、人生後半の「夢」とすることにした。
たった一度の人生なのだから、やりたいことはやり抜く、その決意を固めた。ただ、語学力はないし、お金も、豊富な知識もない。ないないづくしで、旅に出ようというのだ。退職したら、足を踏み出すことに決めた。人生において新たな一歩を踏み出すことはなかなか難しい。 でも、それにチャレンジするのだ。小生の生活年齢は六〇才だが、精神年齢は三五歳だから挑戦できるのだ。 妻をはじめ、知人も旅に誘つてみたが、小生以外はみな良識派で、無謀な旅につきあうほどのお人好しではなかった。その結果、好むと好まざるとに関わらず悠々自適の一人旅となった。
四月は東北の震災ボランティア(岩手県宮古市)に行つたり、熊野古道へ行つたりと充実した生活を送つていたので、実際に動き出したのは五月になってからでぁった。ある旅行会社へ行つて、世界一周航空券を注文することにした。この券は自分の行きたい都市をつないで世界を一'周するというものである。いくつかの条件があるが太平洋と大西洋を横断する、その際時計の方向に回るのか反対に回るのか決めておかなければならない。小生は、初めての一人旅なので、とりあえず、今回は先進国を中心に回ることにした。岡山→羽田→ニューヨークー→ロンドン→,マドリード→パリ→ローマ(合むバチカン市国)↓ミュンへン→帰国の切符を買うことにした。旅行社の人は小生が貧相な身なりの人間だったので、 当然エコノミーの切符を手配してくれようとした。しかし、小生は、自分へのご褒美として人生初めてのビジネスクラスへ乗ることを告げた。エコノミーなら四〇 数万円、ビジネスなら七〇 数万円ということだった。 だが、ビジネスを選んだことが、小生にとって地獄の一歩となった。

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無課な世界一人旅② ~夢を追い続けて~

旅に出る前に小生が考えたことは、体力を消耗しないために、また、移動をしやすくするために荷物を極力減らすことであった。スー ツケースなどというくそ重いものは、はなから持っていく気はなかった。持ち物を一グラムでも減らそうということをコンセプトに準備をはじめた。結果は、20リットル入るサブザック一つに決めた。当然パンツや下着・靴下は二日分のみ。 毎日洗濯することにした。 一人旅は部屋干ししができるのが強みだ。バスタオルの間に洗濯物を挟んでで、しっかり足踏みして水分を取り除き、後は干すだけ。
荷物が一つだけなら、常に身近に置いておけて、空港で荷物を預けたり受け取ったりしなくて済む。当然荷物の紛失もない。トイレに行くときも格段に行きやすい。荷物が少ないに越したことはないのだ。
事前に行きたい場所や利用するホテルの位置も地図落としして、万全の準備を整えた。

期待と不安の中で
国内便はエコノミークラスであったが、成田からはANAのピジネスクラスだったので、ラウンジが利用できた。岡山空港に早く着き過ぎたのだが、搭乗手続きをすませ、ANAのラウンジで出発まで待つことにした。そこには、産経を除く五紙と何冊かの通刊誌が置いてあり、時間をもてあますようなことはなかった。飲み物もビール・ウィスキー・ 日本酒・コーヒ-・ジュースなどが飲み放題でおまけにサンドウィッチまであった。ここで貧乏根性を発揮 したら後々大変なことになると思い、酒類やサンドウィッチには手をつけなかった。

期待と不安を胸に飛行機は出発した。子定どおり羽田へ到着したものの、成田へ行ったことがない。案内表示をしっかり見ながら京成電鉄に乗り、成田をめざした。ここでもラウンジで出発までの時を過ごした。
飛行機へ乗ってしまえば、もうこっちのものとばかり、少し気が太きくなってしまった。これがいけなかった。 ついついピールを二杯飲んでしまい、飛行機の中では、タ食に今まで食ぺたこともない分厚いステーキが出てきたため、赤ワィンを何杯も飲んでしまって、二日酔い・・・。豪華な朝食にもほとんど手を付ナることができなかった。それだけならどうってことないのだけれども、朝、目が覚めると右足にったが、後の祭り。痛風の発作が、起こってしまったのだ。身から出たさびとはいえ、何でこんな時にと思わずにはいられなかった。
NYのJFK空港に着いてからが、大変だった。思うように歩けないのだ。痛いのをがまんしながら歯を食いしばって歩くことにした。公共の交通機関で安くMYの中心部へ行かなくてはと思い、AIR LINEを必死で探した。ところが、ガイドプックにあったAIR LINEはなく、AIR TRAIlN.の表示が目にとまった。 LINE とTRAINではすこし表示が異なるが、「まっいいか」と思って、AIR TRAINをめざした。
ジャマイカで地下鉄に果り換えということは事前につかんでいたのでジャマィカ行きに乗ろうと切符の自販機を探したが無し。仕方なく切待なしで電車に乗る。ジャマイカ駅に到着後、他の乗客は、すたこらさっさと、自動改札口を抜けていく。小生は、どうすることもできず、およよのよ。 駅員らしき人に尋ねたが、理解できず、自販機みたいなのが一台あったので、何とかなるのかと挑んでみたが、どうにもならず。そしたら、先の駅員らしき男性がやってきて、売店で切特を買うように教えてくれた。 感謝感謝。
今度は地下鉄の駅を探さなけれならなかった。ところが、また切符の買い方が分-からない。自販機ではなく駅員の居る窓口で切符をゲット。ホテルの近くの駅まで行こうと思いきや、途中で乗り換えが、必要とのこと。小生が乗り換えようとした駅は、上りと下りのホームが独立していたため、反対側のホームへ行けず、いったんホームの外に出て、またまた切符を買うことに(とほほのほ・・・)
目本の地下鉄では、上りと下りが行き来できるが、NYでは、できないところもままある。結局ホテルに着いたのが、午後七時頃。痛風で足は痛いし、元気もないので、ホテルにそのまましけ込む。
初めてのNYなのに、感動も感激も全くなし。とにかく足が痛い。
しか-一、明日は、メトロポリタン美術館を堪能したいと思つ。

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無謀な世界一人旅 ③ ~あこがれのメトロポリタン美術館へ~
念願のメトロポリタン美術館へ、足の痛みを我慢して、ホテルから三十分ほど歩いて行った。途中、セントラル・パークを横切ったが、それは単なる公園というよりも森林公園といった感じで、多くの老若男女が走っていた。公園の木々は、走る人に木陰を提供し、小鳥たちは、応援歌をさえずる。日本の小さな公園とはまったくスケールが違う。
これがアメリカなの1かもしれない。
十時前にメトロポリタン美術館に着くと、観覧予定者が長蛇の列。一番最後がどこなのか分からなかったので、列の最後に着けばよいと思い、玄関前の階段下で待つ。二百万点所蔵しているだけに、建物はとてつもなくでっかい。十分くらい待って、やっと最後尾にならんだ。切符売り場は、地域や国ごとに分かれており、小生は、日本が含まれた売り場で買う。小生は、六十歳なので、パスポートとクレジットカードを添えて、シニア券を求めた。17ドルだった。ちなみに大人は25ドル。支払いは、カードオンリーだった。
切符売り場には、どういうわけか日本人は並んでいなかった。もしかすると、日本人は、みんな団体客だったのかもしれない。日本語のガイドをインフォメーションでもらい、美術館の地図を広げてみた。むちゃくちゃ見る部屋がたくさんあった。
どこから見るべきか迷ったが、迷ったところでどうにかなるものではない。玄関に近いところから、手当たり次第に行くことにした。
そこには、見たこともないようなブローチなどのお宝がならんでいた。多少今までいろんな物を見てきたとの自負心があったが、メトロポリタン美術館の前では、そんなものは、いとも簡単に打ち砕かれていた。小生の骨董収集なんて、なんてちっぽけなことなのかとお宝たちの前に、魂を揺さぶられ、ひれ伏す以外に手はなかった。
今回の旅は、骨董収集の終焉の旅になるかもしれないと密かに思った。自分で骨董を収集するのも悪くはないが、物は考えようで、世界中の美術館で自分の収集品を保管してもらっているくらいに考えれば、世界一周の口実もできて、旅が楽しくなるかもしれない。
骨董収集に熱を上げるよりも世界中に散らばっている本物を見て歩く方が、経済的に安くつくし、盗難などの要らない心配をせずに済むというメリットもあると思うに至った。預金が全くない中で、これから世界100カ国を巡るというのだから、他人が聞けば、なんて馬鹿な・・・と思うであろう。
話を元に戻そう。メトロポリタン美術館の展示室は、1Fだけでも約200室、2F,3Fをあわせると約400室が。その膨大な作品たちを一日で堪能するのは絶対に無理。今回見たのが、約半分くらいか。特に印象に残ったのが、アフリカの国々の作品たちだ。エネルギッシュでダイナミックで生気に溢れている。見ていて非常に楽しい。ルンルン気分になって、足が痛いのも少し忘れるほどであった。
人類は何千年も前から芸術作品を作り上げてきた。ただ、その当時の人は『芸術作品』を意図したのではなく、身近な美を追究するための装飾品や権力を誇示するための装飾品を創造した。常に人間は、美しくありたいと考えているので、そのための品々を作った。
また、人間の力を越えた自然の力に対する畏怖の念から呪術や信仰のための品々が創作されるようになったと思われる。無名の人が作った作品たちが、私たちに生きる勇気と元気を与えてくれ、限りなく力強いエールを送ってくれるのだから嬉しいかぎりである。その後、アジアの展示室でタイのガルーダを見た。
小生のガルーダの方がおもしろいと思ったが、それは手前味噌だろうか。また、アッシリアレリーフの見事さにも言葉が出なかった。
なぜ、こんなに素晴らしいアッシリアレリーフがあるのか、オリエント美術館のレリーフがかすんで見えるほどの力がそこにあった。
日本室には、載金が見事に残っている地蔵菩薩があった。鍋島焼きも尺皿を含めて、6点ほど展示されていた。日本室には、何人かの比較的新しい人(イサム・ノグチ、徳田八十吉、加藤○○、女性など)の作品もあった。そのことにより、メトロポリタン美術館は常に進化していることを知った。すごい美術館だ。今日、200近い国が存在しているが、学芸員は、常に各国の美術作品の動向にめを目を向けているということなのだ。
痛くて重い足をひこずって、アメリカの作品さらに、ヨーロッパの作品へと足を向けた。フェルメール(5点)、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ(10点位)、エル・グレコなどの作品群これでもかこれでもかと展観。贅沢な時間を過ごしたのだが、一方で、右足の激痛に耐え、死力を尽くしたという感じ。足が痛い痛いの三乗くらいだった。
朝の十時過ぎに入館し、何度も何度もイスに腰を下ろして休憩。閉館の15分前に追い出されるまで、メトロポリタン美術館を満喫。昼食も抜いて、芸術三昧の時を過ごしたのだが、展観できたのは、約半分くらいだった。メトロポリタン美術館の大きさは想像を絶する。足は痛いし、ザックをかけた肩が痛いし、本当に疲れ果てた一日であった。
健康と体力と気力が旅には欠かせない。大失敗の旅になるかもしれない・・。
脳裏を不安がよぎった。


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無謀な世界一人旅 ④  痛風を押して、目的を貫徹
 
 この足の痛みをどう表現したらよいのか、身から出たさびで、何ともかんとも表現できず。
 今日で、NYの地下鉄の乗り方の80%をマスター。残りの20%は、地下鉄の機械が小生を受け入れてくれないのだ・・・。 今日も一回、美しく若い女性に助けていただいた。何で小生のカードを機械が読み取らないのだ?おかげで2ドル75セント損をした。涙・・。 まず、地下鉄でウォール街まで行く。どうということもないが、NYの金融の中心地、あの世界大恐慌が起こったところだから、足の痛さを顧みず、行くことにした。そこは、高いビルが林立しているだけで風情も何もなく、無機質な空間があるだけであった。足の激痛に耐えてまでしてくる必要はなかったと思ったが、後の祭り・・・。
 その後、ブルックリン大橋をめざしてひたすら歩く。橋が見えてきたけれど、橋は頭上のはるか上。小生は川岸の橋のたもとに近づいただけであった。橋の入り口は、ずっとずっと西の方で、更に、数百メートル歩く羽目になる。えもいわれぬ激痛と格闘しながら、ブルックリン大橋に足を踏み入れる。遠くからでも”自由の女神”が見えないかとかすかな希望を持って橋を東に進む。しかし途中でギブアップ。渡りきっても見えるのか見えないのか・・・。
 多くの旅行客やカップルが、過ぎゆく夏を惜しむかのように、行き来している。平日だというのに、優雅に生活している人がたくさんいる。ここは人気のスポットなのだ。去年の今頃を思い出すと小生も一匹の働き蜂に過ぎなかった。心に余裕はなかった。今は、足の痛いのを除けば、何という幸せ、つくづく人生は楽しいと思う。
道を遠回りしたおかげで、ブルックリン大橋駅がどこにあるのかが分かり、それは小生にとって、大きな成果であった。太陽も雲隠れしてくれていて、とっても良い天気であった。橋の西詰め北側には、ニューヨーク市の市庁舎が天を衝き、その美しき威容を誇っていた。イーストサイドリバーとNYの摩天楼、田舎者の小生には少しだけ新鮮であった。
 橋の散歩後は、地下鉄で移動して、フリック・コレクションを展観。個人のコレクションなのに、フェルメール(3点)、ゴヤ(4点)、エル・グレコ(3点)、ベラスケス、レンブラント、ラトゥール工房の作品など、想像以上にすごいコレクションであった。しかもそれらの作品が目と鼻の先で、ガラス越しではなく、生のままで展観できるのだからすごいとしか言いようがない。そのためか、10歳未満は入場不能だった。昨日と今日でフェルメールの絵を8点も見たのだから、有り難き幸せと言わずして何と言おう・・・。
足は激痛に襲われていたが、ホイットニー美術館が近いので、ついつい欲を出してしまった。アメリカの近代画家の絵が中心だったので、急ぎ足で見た。最後の方で、エイズ撲滅のためのビデオや作品が見られた。エイズもアメリカの象徴なのかもしれない。男女の一物もビデオで登場したので、観客は終わりまで、誰一人帰ろうとしなかった。かくいう小生も、時々眠ったが、それ以外はしかと見た。アメリカでは完全に表現の自由が守られているんだと思った。日本の美術館では、上映不能だろう。
ホテルに帰ってから、休憩していたが、あまりにも足が痛いので、近くのドラッグストアーへ行った。店員にとにかく足が痛いことを告げた。彼女は、「靴が足に合っていないのではないか」と言ったので、小生は、「靴は足にぴったりだと主張。痛風の説明は英語でできなかったが、とにかく痛いことだけは伝えて、少し怖いけれども、飲み薬と塗り薬を買った。しめて、15ドル98セントだった。
 薬を飲んで3時間ほど経過したが、何となく痛みが薄らいできたような気がする。どんなときも、勇気を出して、声をかけて助けてもらうことが大切だと思った。
夕食は、東京ロールの寿司を食べた。約1300円と高かったが、味はそこそこで、がまんできた。もちろん痛風のため水のみ、酒なしで、残念。夕食後、ホテルに帰って家にTELしようと試みるも、ガイドブックの通りに行かず、ここでもホテルマンに助けを求めて、一件落着。TELカード5ドルにチップが1ドルいったが、妻も小生の声を聞いて安心したことであろう。妻には痛風の薬を送って欲しいと頼む。
人間一人では生きていけない。英語はできなくても勇気と言う気とコミュニケーション能力さえあれば、何とかなる。そのことが今回の旅で得た第一の教訓かもしれない。生活年齢は60歳、精神年齢は35歳のおっさんの珍道中もまんざら捨てたもんではないとつくづく思った。

  DAY HOTELにて 
 朝、テレビニュースを見ていたら、簡単に人間(二人の兄弟)が銃で撃ち殺され、その一方で、火事で助け出されたネコに酸素マスクを付けて保護していた。更に、地下鉄の線路上にいたネコを2時間もかけて捕獲し、救出した。これがNYなのだ。小生が3日間お世話になったホテルの近くにも住宅が密集していた。外から見ただけでも太陽の恵みとはほど遠い生活をしている人たちがたくさんいる。
 日本人のアメリカ人の住居に対するイメージとして、芝生があり、時には、プールもあるような大豪邸に住んでいる・・・なんてイメージを持っていたが、それは、ごく一部の人で、多くの人、つまり99%の人は、日々、貧困と闘っているのかもしれない。たった3日間しか滞在しなかったが、パトカー、救急車、消防車がたびたび出動していた。緑は、日本の大都会より多い感じがしたが、自分としては、あまり好きになれない街であった。しかし、そこで働いている人々には、幾度となく助けていただき、本当に有り難かった。無機質なアスファルトジャングルの中にも温かい人間の血が通っていた。見残したメトロポリタン美術館の作品たちに必ず会いに行きたいと思う。 

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無謀な世界一人旅 ⑤
~人の命よりネコの命が大切? それがアメリカ!~


DAY HOTELにて
  朝、テレビニュースを見ていたら、簡単に人間(二人の兄弟)が銃で撃ち殺され、その一方で、火事で助け出されたネコに酸素マスクを付けて保護していた。更に、地下鉄の線路上にいたネコを2時間もかけて捕獲し、救出した。これがNYなのだ。小生が3日間お世話になったホテルの近くにも住宅が密集していた。外から見ただけでも太陽の恵みとはほど遠い生活をしている人たちがたくさんいる。
 日本人のアメリカ人の住居に対するイメージとして、芝生があり、時には、プールもあるような大豪邸に住んでいる・・・なんてイメージを持っていたが、それは、ごく一部の人で、多くの人、つまり99%の人は、日々、貧困と闘っているのかもしれない。たった3日間しか滞在しなかったが、パトカー、救急車、消防車がたびたび出動していた。緑は、日本の大都会より多い感じがしたが、自分としては、あまり好きになれない街であった。しかし、そこで働いている人々には、幾度となく助けていただき、本当に有り難かった。無機質なアスファルトジャングルの中にも温かい人間の血が通っていた。見残したメトロポリタン美術館の作品たちに、将来必ず会いに来たいと思う。

〝CRISIS IN SYRIA〟について

 ニュースを見ていると、どのチャンネルでも〝CRISIS IN SYRIA〟の文字が飛び込んでくる。よく分からないが、地中海へ米軍の決定で、空母等を派遣するらしい。確かにシリアでは、市民に対し、化学兵器が使われたようで、許せないことであるが、それをもって、空母派遣(空母は侵略のためにある)とはいかがなものか。シリア政府の蛮行は許せないが、もしアメリカが口出しするとなるとCRISIS(危機)ではなくCATASTOROPHE(破局)につながるのではないか・・・。ノーベル平和賞をもらったオバマ大統領の考えが、小生にはまったく理解できない。あのノーベル平和賞が何であったのか。少なくとも核兵器廃絶と世界平和実現のための賞であったと思うのであるが・・・。オバマ大統領に初心に立ち返ってもらい、口先だけの世界平和ではなく、実質的な世界平和へと歩み出して欲しい。「歩む」というのは止めるのを少なくすることだ。ひたむきに、継続的に平和への歩みを続けて欲しいと思うのは、小生だけであろうか。我らが安倍さんは、空母の派遣についてどう考えているのだろうか。日本国憲法第9条が泣くような態度は取って欲しくないのだが・・・。

国立自然史博物館に想う

 アメリカは美術館といい、博物館といい、まったくもってスケールが違う。当初は、近代美術館へも行く予定であったが、恐竜の化石のすばらしさに心を奪われて、時間の許すまで、そこにいることにした。昼食もサンドイッチとジュースで約1500円と高く付いたが、2回通り恐竜の化石を見ることができた。子どもたちに一番人気のところで、多くの親子連れが来ていた。大人の入場料25ドルなので、金のない者には行くことができないかもしれないが、お金持ちにとってみれば、些細な金なので、どうということはない。美術館や博物館は、お金持ちのためにあるのではないかと思った次第である。お金持ちは、自分の子どもたちにこれでもかこれでもかと生きた教材を与えることができる。夢を持つチャンスをたくさん持てる子どもは、大きく羽ばたくチャンスを得ることができる。お金持ちにとってアメリカは、本当に住みやすい国だと思う。もっと貧乏人にも開かれた美術館や博物館であればいいと思う。貧乏人出身の小生のひがみであろうか・・・。
 小生は、ここでもシニアで通して、17ドルにしてもらった。日本では、60歳からシニアだと本気で考えていた。美しい誤解と自己弁護しておこう。

ニューアーク・リベラル空港にて
 
 人生においてもだが、旅においても何が起こるか分からない。NJTの切符を自動販売機で思うように買えず、ペンシルバニア駅で内心パニックになった。悪いことは続くもので、改めて切符(変な切符が出てきていた)を買うことに・・・。その際、ホテルや見所を地図落とししていた大事な地図をカウンターの上に置き忘れてしまったのだ。NJTに乗ってから気がついたのだから後の祭り。イギリス以降の地図がなくなってしまったのだ。NJTの中でも気が気ではない。車窓から見える風景がどんどん後景に追いやられていく。小生が降りる駅EWR駅(ガイドブックの駅名)がニューアーク・エアポート駅(実際の駅名)だというのをうっかり忘れてしまい、乗り過ごしてしまったから大変、しかも乗った電車がエクスプレスだったからなおさらのこと。動揺が動揺を呼び、途方に暮れているところにさっき改札してくれた車掌が通りかかり、引き返すように指摘してくれた。次の駅に着いたら引き返そうと思ったが、時間ばかり過ぎて、なかなか止まらない。飛行機の時間も気になるし、困っていたとき、美しくもやさしい隣の中国人女性がスマートホンで調べて、Wood Bridgeの駅から6つめだと手帳に書いて教えてくれた。一時間近く時間を損してしまったが、普通なら行けないところに行けてラッキーと思うことにした・・・。小生の大ミスが返って、人の優しさ、温かさに触れさせてくれ、またまた幸せ気分。地図は現地でゲットすることにして、失敗は成功の元にしていこうと思う。失敗により、また一つ賢くなったとうれしく思う。今回の旅が益々楽しいものになりそうな予感がする。




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無謀な世界一人旅 ⑥
  ~紳士の国 イギリスへ~


BEDFO HOTELにて


ヒースロー空港に着いたのが朝の七時三十分。ホテルに着いたのが九時。運の良いことに、地下鉄が空港からHOLBORN駅まで一続き、乗り換えなしで大満足。昨日地図を失くしたことなど何のその。空港で、地下鉄マップを手に入れホテルで市内地図をゲット。今日は一日中、大英博物館で過ごせると思うと、気分は天国、ラッキー、ラッキー。ホテルは北向きの部屋で、何かわからないような建物がいっぱい見える。これからイギリスで珍道中が始まるのかと思うと、胸がわくわくするようなしないような、とにかく、前に向いて歩けば行きたいところに行ける。これは間違いなし。
 フロントの若い子のさわやかさも手伝って、今日は良い日になりそうな、そんな一日の始まりです。ロンドンの空気はすでに秋色で、白い風が優しく吹いています。日光もギラギラ感はなく目に優しいです。
 紅茶の本場でミルクティーを自分で入れて、一服したらもう出発です。ホテルの六階から見える景色をとりあえずカメラに収めておくことにします。ロンドンの建物には、エアコンの室外機が見当たりません。クーラーのない生活がそこにあるのです。

入場料無料の 大英博物館

 ホテルから5分ほどのところに大英博物館はあった。とびきりでかい建物で、多くの人がうろついていた。入場料無料なので、ここかしこに5ポンドの募金をという募金箱が置かれていた。その中には、何ポンドのお金が入っているのかと思うほど巨大なしかもプラスチックでできた透明な箱が置いてあり、入場者に大変インパクトがあった。無料でお客を迎え入れる。これがかつての大英帝国を彷彿させるやり方かもしれない。アメリカの美術館や博物館が25ドルお客から徴収するのとは、わけが違う。小生は、帰り際になけなしの財布から5ポンド紙幣を入れた。カンパせずにはおれない気持ちになっていた。もし、5ポンド入れなくても誰にもとがめられはしない。この大英博物館を維持・運営していくためには、膨大な費用がかかる。たとえ、侵略戦争で奪ってきたものであっても、そのお宝のもつ価値は変わらない。収集方法はともかくとして、維持管理に敬意を表した次第である。気の遠くなるほどのたくさんのお宝を前にして、いちいちゆっくり見て回る時間も体力もない。コアガラスだけでも、何か所にもさりげなく置かれていた。すさまじいばかりのお宝がそこにあった。特に印象に残ったのは、エジプトのミイラと中南米の宝石でできたマスクと蛇であった。後、九谷焼の徳田八十吉の大皿があったことだ。自分としては、あまり好きな作品ではなかったが、大英博物館の学芸員の目に留まったことがすごいと思った。大英博物館が過去のお宝だけに目を向けているのではなく、世界中の現在のお宝にも目を向け、進化発展し続けているのが何とも素晴らしく、拍手を送りたい。

紳士の街なのに ゴミが散乱

 昨晩は、よく寝て5時前に目が覚めた。足を除けば、体調はすこぶる絶好調。家を出て早くも六日目。旅は、その日何をするのかを考えておけば、それでOK.ニューヨークで地図類を置き忘れてきたのが悔やまれる。
 今日は、Ryeへ向かう。いささか不安もあるが、当たって砕けろで、前進してみたい。中世の街並みが残っているRye。ロンドンから日帰りで行ける手軽なコース。今までは、美術館や博物館を中心に展観してきたが、今日は、イギリスのスローライフに接近してみたい。イギリスへ来て見て、建物などから歴史の深さを非常に感じる。今泊まっているホテルは、1870年創業、2003年の改装で部屋は快適。そんなホテルの6階の部屋から外を見ると、自分の目線より高い木が何本か見える。背の高い木が人間の営みを見下ろしてきたのだろうか。木々の緑が街に潤いを与えているように思える。
 ニューヨークでは、街を清掃している人をよく見かけた。それにより一定の清潔感が保たれていたが、ロンドンの街は、紳士の街であるはずなのに、異常なほどゴミが散乱している。そのゴミを見て、高い木々は、何を思っているのだろうか…?

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無謀な世界一人旅 ⑦ ~イギリスのジェントルマンは本物だった~

イギリスのジェントルマンは本物だった

 今日もいろんな人と出会い助けてもらった。地下鉄で何とかチャーリング・クロス駅まで行き、国鉄に乗り換えようと、地上に出たものの、どこに駅があるのか不明。実際は、出口より東にあったのだが、小生は苦し紛れに北へ行って教会の前の道を東へ行ってみた。すると、すぐに国鉄の駅が見えてきた。NYでの失敗があるので切符は窓口で買うことにした。ところが、窓口の人には、下手な英語が通じず、Ryeまでの往復切符は買えたものの、何番ホームか、何時出発かよくわからないとのこと。こりゃ大変だと思っていたら、隣の窓口のお客さん(とってもいい顔の紳士)が何とかしてやろうというような合図をしてくれた。切符を買って待っていると、その紳士が4番ホームだと教えてくれた。さらに、インフォメーションへ連れて行ってくれて、4番ホームだとだめを押してくれた。その時、小生は、路線地図をゲット。9時38分の列車があるとのことだった。親切な紳士は、さらに、アッシュフォードでチェンジ(乗り換え)だと教えてくれた。これぞ本場のジェントルマン、イギリスの紳士はすごい。その紳士が、小生には、まるで天使に見えた。観光客のためにしかも銭儲けにならないことを本気でやってくれる。そこにイギリスの真のジェントルマンの心意気を垣間見た気がした。小生は単細胞なので、心までうきうきしてきた。本当にありがたかった。アッシュフォードでもRye行きのホームを駅員に聞いた。1番だと教えてくれた。出発は、11時22分だった。1番線で列車を待っていると別の行先の列車が来た。その列車は、全然動こうとしなかった。時計は、刻々と回り、11時20分を指していた。目の前の列車は行き先が違う。おかしいと思って、ホームの前方を見ると、列車が来ていた。田舎の方へ行くのだから、2両編成でホームの前の方に止まっていたのだ。小生は、時間はまだあると思い、何も考えずにのんびり本を読んでいたのがいけなかった。2分前に機転を利かせて、間一髪で難を逃れることができた。列車に乗るとすぐに動き出した。うろちょろ見回していると心優しい中国人女性が、空いた席に座れと手招きしてくれた。夫と一緒であったにもかかわらず、呼んでくれたのだ。小生は、にっこり笑ってただただ感謝。列車がほぼ満席だっただけにありがたかった。小生が持っていた本をテーブルの上に置くと、女性の夫が「日本人ですか?」と聞いてきた。「そうだ。」というと、女性が「一人ですか?」とさらに聞いてきた。小生は、いま世界一周航空券を買って、旅をしているところだと話すと、男性は、「あなたは、偉大な旅行家だ。」とほめてくれた。小生は、ほめられたので、うれしくなって、ルンルン気分になった。その後、彼らにどこから来たのかと聞くと、「南京から来た。」と答えてくれた。小生は、南京大虐殺のことを思い出して、一瞬動揺。「沈黙は金なり」とばかり、旅先のことなので、南京大虐殺については、だんまりを決め込んだ。英語ができないのは、こんな時つらいと思った。Ryeまでの短い時間だったが、中国人の夫婦に、楽しい時間をいただいた。男性が少し日本語がわかり、筆談で会話ができたのもよかった。日本語しかわからない小生であるが、何とかなるものである。
 Ryeで降り、駅前に観光センターでもあるのではと、探してみたが、残念なことに、そんなものはなかった。駅舎に戻って、パンフでもないかと二つばかり手にしてみたが、どちらも小生が求めるものではなかった。すると紳士的な男性が別のパンフのありかを教えてくれた。英語の地図だった。NYでへまをした自分が悔やまれる。英語の地図でもないよりはましだと、気を取り直し、それを見ながらRyeの街を散策。十人ほどの陽気なRyeの中年の男女が、民族衣装を着てダンスを踊っているのに出くわす。見ているだけで楽しい。これがRye流のおもてなしかもしれないと思う。その後、ST.MARY‘S CHURCHに行く。古い歴史のある教会なので、ステンドグラスが美しい。2.5ポンド(約400円)払って、教会の塔へ上った。中世のRyeの街が絵本の中にでも出てくるような、なんといっていいかわからないほど美しく輝いて見えた。はるか東方には、大西洋が横たわり、眼下には、中世の街が優しく語りかけてくる。まったりとした非日常的なスローな時間が流れていく。空気はどこまでも澄み、非常においしい。しかも、塔の上にいる時だけは、太陽が機嫌よく顔を出してくれていた。ずっとここで景色を楽しんでいたい気持ちになったが、いつまでもじっとしているわけにはいかないので、教会に別れを告げた。 その後、カフェで昼食、デザートにアップルパイを頼んだら、その一切れの大きいこと・・・。しかも温めてあったので二度びっくり。残したらもったいないので、苦行をするつもりで平らげる。小生には、冷えたアップルパイのほうがよかった・・・。

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無謀な世界一人旅 ⑧ ~ナショナルギャラリーへ~

女子大生お勧めナショナル・ギャラリー(N・G)へ

 今日はN・Gへ歩いて行った。ロンドンの街のゴミの多さが気になりながらN・Gの開館前に到着。大英博物館と同様にここでも4ポンド以上の募金を呼び掛けている。案内のリーフレットは一部1ポンド、募金と合わせて5ポンドであった。館内をどう行くべきかわからなかったので、入り口から直進し、セントラルホールの作品を見た。さらに奥の部屋へ行こうとすると入場制限があり、並んで待つことに。「SAINTS ALIVE」展をしていた。聖書にゆかりの人物のからくりを入館者が自由に楽しめるのだ。一番目の女性の人形は、スウィッチONで、自分の口をペンチの様なもので激しく打ちつけた。すると、とてつもなく大きな音がした。五~六種のからくりを堪能。その会場で中

年の日本人女性が声をかけてくれた。その方は、週に二回N・Gで国家公務員として働いているという。週二回で国家公務員待遇というのだから驚きだ。日本では考えられない。日本では、非正規の職員であれば、人間らしい生活ができないのが当たり前になっている。イギリスでは週二日分の国家公務員としての権利が認められているのだ。たいへん合理的である。
 労働者を大切にするイギリスがおかしいのではなく、日本がおかしいのである。日本で非常勤講師をしようものなら、権利なんてものはほとんどなく、賃金水準は、生活保護に満たない場合も多々あるのだ。安倍さんよ、グローバル化をいうのならぜひイギリスを見習って、労働者の命とくらしを守ってほしい・・・。彼女は、イギリスに来て20年以上になるらしい。彼女は、音声ガイドを奨めてくれた。
ここでも、見知らぬ女性に助けられ、良き日を過ごすことができた。
 J.ファン・エイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」にまた会えた。この絵は夫妻が結婚の誓いをしているところといわれているが、真相はよくわからない。夫妻の間に描かれている。凸レンズの絵の回りにある1㎝ほどの○の中に、キリストの生涯が10場面描かれているというのだから、超絶技巧といわなければならない。小生は目が悪く、確認できなかったのだが・・・。
 キルバイン(子)の「大使たち」に会うのも二回目だった。絵の下の方にだまし絵の技法で人間の頭蓋骨が描かれており、何かしら
不吉な予感が漂っていた。巨大な美術館では、いつも思うことだが、小生の知っている絵の少ないということ。それだけに多くの未知の絵との遭遇できることは楽しい。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ・レンブラント・ルーベンス・ゴヤなど、名画がたくさんあった。足の痛みを忘れてしまうほど、名画を見て回った。足も頭も疲れてしまったが、小生にとっては、至福の時が流れた。
 鑑賞を終え、外に出ると、トラファルガー広場でストリート・ダンスや銀粉を塗ってじっとしている様々なパフォーマンスが行われていた。多くの観光客の目を楽しませるパフォーマンスは、そこに居るだけで、心がなごみ、幸せにしてくれる。パフォーマンスも楽しみながら、観客からのチップも手にして、ハッピー、ハッピー。みんなハッピー、ハッピーで、笑顔がはじけた。

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無謀な世界一人旅 ⑩    ~二度も天使に会った!~

あれっ、サイフがない!

 楽しいはずの旅で、ショッキングなことにでくわしてしまった。サイフをすられてしまったのだ。人生初の体験のショックはあまりにも大きく、心が折れそうだった。それはマドリードの地下鉄でおこった。駅で乗り換えをしようとした時、開いたドアの前に一人の男が大きく両手を広げ小生の行く手を阻んだ。何がおきたのかと思った次の瞬間、彼は電車から降り、小生は電車に乗った。二人組のスリが小生をねらっていたのだった。まさに神技だった。その時小生は、サイフをすられたとは露ほども考えていなかった。気が付いたのは、ホテルに着いてからだった。気持ちが奈落の底に落ちていくのを感じた。今までの幸せな気分が一気に、ブルーで沈うつなものに変わっていった。悲しくもあり、情けなかった。間ぬけな自分に腹が立った。あまりにも軽率であった。
 ホテルで一息ついて、盗難届けを出しておくべきだと考え、ホテルマンに、マドリードの警察署の場所を聞いた。ホテルから15分ほどの所に派出所はあった。しょぼしょぼと歩いてそこに着くと番号札を渡され、待合室で待つように言われた。重い空気が流れており、気持ちの良いところではなかった。もう二度とこんな所には来たくないと思った。しばらくすると、順番が来て、小生が呼ばれた。小生は英語もスペイン語も何もできない。日本語もおぼつかない。「えらいこっちゃ!」と内心、不安になっていると、妊娠中の30代の女性警官が、担当者との間に入って、対応してくれた。運のよいことに、彼女は少し日本語がしゃべれたのだ。単純な小生は嬉しくなった。マドリードの警察官は大変手慣れていて、20~30分で、盗難証明書を発行してくれた。(下はそのコピー)

もちろんそれはスペイン語であった。盗む人がおれば、助けてくれようとする人がいる。どちらも生活がかかっているのだ。小生は、ニッコリ笑って礼を言って、派出所を後にした。現金とクレジットカード2枚と運転免許証etcが失くなったのは痛かったが、警察官と話をしたことで、少し、前向きに考えることができるようになった。今、スペインでは失業の若者が町にあふれている。積極的に、スリにサイフをあげたわけではないが、それで飯が食えなくなるわけではないし、スキがあった小生にも非があったわけで、いささか高い授業料になってしまったが、命に別状があるわけでないし、残りの旅を楽しんでいくことにした。命があればなんでもできる!霧が晴れていくように、心のもやもやが少しずつ晴れていくように思えた。とにかくプラス思考でいこう。

今日も天使に会った!!

 今日はプラド美術館へ行った。少し道に迷いながらも軌道修正して、徒歩にて到着。地図とコンパスさえあれば、何とかなるといつも思う。
 さてプラド美術館であるが、日航のマドリード社長の安本氏の指摘のように、ムリーリョの絵は、本当に素晴らしく、館内全体を展観した後、もう一回、ムリーリョに会おうと思った。とりわけ、『無原罪のお宿り』は、マリアの女性として、母親としての表情が何とも優しくも美しかった。またマリアの回りに描かれた天使たちのあどけない天真爛漫な表情は、何にもかえがたいと思った。ムリーリョの絵が本日の天使の第一である。ムリーリョの描く女性たちは、どの女性も、どの女性も目を見張るほど美しく、男なら抱きしめたいと思うほどであった。ルーベンスとティティアーノの『アダムとイブ』の作品も見た。これは、ルーベンスがティティアーノの作品を模写したものだが、小生の目には、ルーベンスの方が上手に思えた。笑顔の赤ちゃん(悪魔)がイブにリンゴを渡す所で、アダムが「やめたら」という仕草をしているのだが、イブがリンゴをもらってしまう。ティティアーノの絵は、悪魔が笑っていない。そこが大きく異なる。好みの問題だが、ルーベンスはすごいと思った。
 倉敷の大原美術館にあるエルグレコの受胎告知を8倍位大きくした絵があり、これにも感動した。ゴヤの有名な絵が何点もあり、心が躍った。基本的には、ゴヤは庶民の味方だった。あの1808年5月3日の銃口に両手を広げた男の絵が如実に物語っていた。以前から写真でよく見ていたこの絵に会えたことでプラド美術館に来た甲斐が充分あると思った。その他、ベラスケスのキリスト磔刑図は言語に絶するほどリアルで、見事という他なかった。




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無謀な世界一人旅 ⑪
   ~さわやかなスペインの太陽 そして、ゲルニカ~


さわやかなスペインの太陽
 旅は歩かなくてはおもしろさが半減する。多少道に迷おうとも、それを楽しみながら、目的地を目指す。地図とコンパス片手に少なくとも30分以内の目的地ならば、歩いてみるべきだ。 昨日も道に迷って、行きも帰りも通る予定のないSOL駅を通過して、内心不安だらけであった。夕方のSOL駅は、若いカップルを中心に道路に人がいっぱいあふれていた。スペインの不況はどこ吹く風といった感じで、恋の花が咲いていた。
 
 朝の太陽の光をどう表現したらよいのだろうか。スペインの太陽は、日本の太陽と違って、肌に直接あたってくる感じがする。日本では、直接ではなく、太陽と肌の間にもやもや(水蒸気など)があって届く。スペインの太陽はまぶしくきつい感じなのだが、何故かわからないが、太陽にさわやかさがあるのだ。冷たい太陽というか、心地よい太陽であった。ヨーロッパでは、肌を焼くということが、しばしば行われるが、うなずけるような気がする。日本の太陽の暑さは、肌に大変刺激的なのだが、スペインの太陽は、刺激的でなく何となく優しいのだ。太陽がごちそうに思えるのだ。緯度の違いからくるのか、偏西風のためなのか、それとも空気がきれいなのか、うだるような日本の暑さと全然違うのだ。スーパーで買ったリンゴが甘酸っぱく、みずみずしく歯切れもよくとってもおいしかったが、太陽のおかげかもしれないと思った。スペインの澄み切った青空と太陽は、一度は味わってみる価値があるように思う。

  
 ゲルニカに会う

 マドリードに来て、ゲルニカに会わずして帰るわけにはいかない。それは、ソフィア王妃芸術センターにあるのだが、もし、ゲルニカがプラド美術館にあったとしたら誰もソフィア王妃芸術センターにはいかないと思うくらい、とにかく出色の絵であった。
 登場人物はわずか六人で、うち一人は赤ん坊、もう一人は兵士、他は女性と思われる。後、登場するのは、馬、牛、それに鳥である。ドイツによる空襲で焼け野原になったゲルニカ。悲惨な戦争を告発するために、ピカソは筆を執った。人間の愚かさに対し、馬と牛が怒りのいななきをあげる。鳩と思われる鳥の上にナイフが描かれている。死を意味するのだろうか。女性たちは悲痛な雄叫びをあげている。死んだ兵士の右手の所に一本の花が描かれている。おそらく、ピカソは花
を平和の象徴として描いたのだと思う。そして、早く平和な日々を取り戻し、二度と悲惨な戦争を繰り返してはならぬという自らのメッセージを込めたのだと思う。 小生は、ゲルニカに午前、午後と二回会い、ピカソの平和への熱き思いを肌で感じた次第である。ピカソが亡くなって、40年目にマドリードに来た甲斐があった。
 
 日本のきな臭い政治を思うとき、国民の不断の努力で平和を希求していきたいと思う。21世紀を生きる我々にとって、武力による威嚇ではなく平和外交の大切さを説く日本国憲法第九条が、ますます輝きを増しているように思う。

人を見たら泥棒と思え」とは悲しき教訓か
 
 スリに会って以来、自分の気持ちの中に人を警戒するような部分が強くなっていることに気づく。「人を見たら泥棒と思え」というのは、いかにも悲しい教訓である。でも、世界を股にかけて旅する時、これが現実なのである。おそらく誰も好き好んで人のものを盗んで生活しようなんてやつはいないと思う。どうすることもできず、やむなくやってしまったんだと思う。小生に言わせれば、盗るより盗られた方がましだと思う。自分の良心に従って生きていくこと、他人の物を泥棒するなんて浅ましい心で、幸せになれるはずがないと思う。ただ、自分の気持ちの中に、他人を信ずることのできない部分が強くなったのは否めない。安心安全な旅を続けるために、気持ちを引き締めながら前に前に進んでいきたい。

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無謀な世界一人旅 ⑫  ~芸術に魅せられて 心地よい疲れ~

    また、お金を食べられた
 
 またまた、地下鉄の自販機に4.5ユーロ食べられてしまった。自販機は、ゆっくり落ち着いて対応せよということか。とにかくヨーロッパの自販機には穴が多く、使い慣れていないと戸惑ってしまう。コイン、紙幣、それにカード、しかも駅に日本のような地図による値段表はない。自販機の操作によって、料金を知り、お金を入れなければならないのだ。本当に厄介だ。切符を買う窓口があればよいのだが、無い時や、窓口が開いていない時もある。今朝、マドリードでは紳士に助けていただいた。感謝感謝でいっぱいである。
 午後、パリのシャルル・ドゴール空港に着いてパリ市内に向かうバスに乗ろうとした時も、切符の買い方がわからない。中国人とベトナム人の混血の若い女性が愛の手をさしのべてくれた。オペラ座前のバス停に着いて、ホテルまで何とかなると思っていたが、なかなかたどり着けず、2人の女性に尋ねて、やっとゴール。ホテルには、ニューヨークで依頼した痛風の薬が、妻から届いていた。早速、ホテルから自宅へ感謝の電話。久しぶりに聞く妻の声は、妙に明るかった。「父さん元気で留守がいい」のではと思った。
オペラ座の威厳に満ちた建物は、重量感もあり、ハイソサエティの社交場だとわかる。街行くパリジェンヌを見るとマドリードの女性と比べると、何故だかわからないが、どこかあか抜けて美しいような気がした。これは小生の偏見だろうか。


 ルーブル美術館へ
 
 今ホテルにて時間調整をしている。一人旅をしているとホテルの中では話し相手もおらず、することもないので、駄文にうつつを抜かしている。今まで60有余年生きてきて、これほど自由な時間を持ったことがあろうか?人間は何のために働いているのか。当然幸せになるためである。斉藤一人さんは、「幸せになる権利がある」のでなく、両親の愛の下、自分は生まれてきたのだから「幸せになる義務がある」というのだ。小生は、ある時は美術館をふらつき、あるときは骨董に手を出し、またあるときは、こうやって旅をしている。自分で言うのもおかしな話だが、ラッキーだと思う
 時間調整が済んでルーブル美術館へ向かった。ルーブルへは昔一度来たことがあったが、当時は美術にまったく興味はなく、小便旅行で通過しただけであった。今回はしっかり見てやろうと意気込んだ。
 ルーブル美術館は建物のイメージがつかめないほどでっかい。

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無謀な世界一人旅 ⑬   ~モンマルトル、凱旋門、ぐるっと回って13km~
 
ホテルから 今日は、あえて地下鉄を使わず、健康のために歩きぬいた。まず、オペラ座の周りをまわって、空港行きのRossiy Busの乗り場を確認。これで迷うことなく15分もあれば、バス乗り場まで行ける。モンマルトルに向かう途中、へたり込んでいるホームレスに出会った。その中には、犬を連れた女性もいた。華やかなパリの一角で見た格差と貧困の現実。日本と同じようなことが垣間見えてくるのだ。フランスの自由・平等・博愛の精神は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。それともフランスでも、貧困は、自己責任ということで目をつむって終わりなのだろうか。    
今朝は、モンマルトルのサクレ・クール寺院のバジリカ大聖堂で日曜礼拝を受ける。十一時頃から礼拝は始まった。シスターの美しい歌声とパイプオルガンが、教会内に響き渡り、魅惑的であった。あのサウンド・オブ・ミュージックのジュリー・アンドリュースを思い出させた。神父の言葉は、全く理解できなかったが、由緒ある教会で皆さんと90分間を共有できたことは望外の幸せであった。シスターがリードする讃美歌は、甘く切なく心休まり、心が清らかになる歌声で、いつまでも聞いていたいと秘かに思った。すべての区切りがついた時、周りの人につられて三~四人の人と握手をした。握手によって、神の前で幸せの交換をしたのだと思った。同じ時を共有した者のぬくもりがそこにあった。    
教会から凱旋門まで4kmほどあったが、気にせずに歩いた。途中、若いスペイン女性が、金色の指輪を小生とのすれ違いざまに落とした。小生には何のことかわからず、無視して行こうとすると、その女性が後ろから声をかけて、金色の指輪をプレゼントすると言い出した。25歳で今日が誕生日だという。指輪を手にすると、それはおもちゃで、全く駄目なものであった。少し歩き始めると、先の女性がさらに声をかけてきて、コーラをおごれという。小生は指輪を返して、歩き始めた。女性は二度と声をかけてこなかった。しばらく行くと、いかがわしい店の前で昼間からポン引きが声をかけてきた。モンマルトルにほど近いところにこんなものがあるのかとひとり変に納得、もちろん相手にすることなく凱旋門に向かった。けばけばしい看板の店が、数軒あるのが、目についた。ほっとしたのもつかの間、今度はトイレに行きたくなった。公衆便所の看板が見えたので入ろうとしたら、タッチの差で中年の男性に先を越されてしまった。その男性、トイレの使い方がわからなかったらしく、ウンチの山を流すことなく出て行った。小生、何とかなるさと小便をしながらボタンを押すと、便器が倒立し、おまけに警報機が鳴って、ビックリ仰天。途中でトイレの外へ出ると、次の女性客、笑ってどこかへ行ってしまった。ペットボトルの水で何とか手を洗うことができて、ひと息ついた。フランスの公衆便所恐るべし…。    
昼食は、凱旋門東の公園でとった。天気も良く、公園では、若いカップルや家族連れが大勢来ていて、団欒を楽しんでいた。パリのど真ん中の公園でゆっくりくつろげるのだ。岡山市だったら、後楽園と運動公園くらいしかないが、パリにはいろんなところがある。しかも、ポプラ並木がいたるところにみられ、街に潤いを与えている。ロンドンと言い、パリと言い、大したもんだと思った。  帰りは、シャンゼリーゼ通りを歩いてみた。歩道は人、人、人であふれかえり、まっすぐに歩けないほどであった。小生は、凱旋門を背にして、左側の通りを歩いたのだが、高級店が多く、お客はあまり入っていないように思えた。チュルリー公園を歩いているとフランスの軍人が向こうをまわれと言ってきた。言葉の意味は分からなかったが、何とかなるものである。    

今日は、しこたま歩いたので、フランスの歩き方は、だいぶ理解できたように思う。細い道を通るのではなく、幹線道路をできるだけ利用すれば、道が比較的ストレートなので目標にたどり着きやすい。近道をしようと細い道を使うと、袋小路があったり、曲がり角が多かったりで、初心者には、歩くことが難しい。痛風の痛みも取れ、13kmも歩くことができたのは、うれしい限りである。NYのドラッグストアーのお姉さんや、苦労をしてフランスまで薬を届けてくれた家族に感謝したい。ちなみに薬の送料は、速達で4500円かかったと、日本に帰ってから聞いた。

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無謀な世界一人旅 ⑭   ~幸せを求めてルーブル、オルセーへ~
   
シテ島巡りとルーブル美術館再訪
シテ島内をゆっくり回っても、さほど時間を要しない。中世の建物をいくつか見て、足をゴシックの最高建築と言われているノートルダム大聖堂に向けた。1163年の創立というから、850年の歴史を持つ。堂々とした建物と彫刻群が見る者の心を奪う。正面からシャッターを押そうとすると建物が立派すぎて、なかなかカメラの中に納まりきらなかった。そのため、建物の西側に階段状のステージが設けられていた。数枚写真を撮って、聖堂内に入った。オーディオガイドを借りて、宝物館に入ったが、頭の中に何も残らず、850年前の建物ということだけが残った。昨日行ったモンマルトルのサクレ・クール寺院のバジリカ大聖堂と比べて、中がだいぶ暗かった。そのことが神秘的に思え、建物の重厚さと威厳を増大させているのかもしれないと思った。一通り見終わって、午後の予定がなかったので、今一度ルーブルへ行くことにした。
 ルーブルへ着くや否や運の悪いことに雨が降り出した。入場券を買おうとピラミッドの方を見ると約200メートルの長蛇の列。雨脚が強くなる。仕方なく、見知らぬ4人組の後ろに並ぶ。雨がさらに強まる。前の4人組は傘を持っていない。小生は傘を持っていたので、どうぞとばかり小生の前の20代の女性に傘を差しだした。若い女性がにっこり笑って、相合傘と相成った。その女性は、コロンビアからきているという。家族ぐるみで来ている風だった。東京にも来たことがあるという。二日後、ベニスへ行くらしい。20分くらい雨にぬれ、列の真ん中あたりに来た時、車椅子の老婦人が現れた。女性のおばあさんだという。ルーブル美術館では、車椅子の人とその関係者は、優先的に中に入れるらしい。小生にも一緒に行こうと声をかけてくれ、家族の一員にしてもらった。雨の降りしきる中、20分ほど時間を節約できた。幸運と思う半面、列に並んでいる人に申し訳ないと思った。コロンビア人の優しさに触れることができ、若い女性に傘を差しだして本当によかったと思った。長い列をしり目に、チケットを買った。家族の中の父親にあたると思われる人は、ルーブル美術館の日本語のパンフレットをもらってきてくれた。ありがとうの握手をして、コロンビア人の家族とさよならをした。心が温まった瞬間だった。何気ないほんのちょっとした触れ合いが、小生を幸せにしてくれた。この幸せこそが、旅の持つ醍醐味の一つかもしれないと思った。  
ルーブル美術館では、フェルメールの二点を含め、一昨日見ていなかったところを中心に展観。ラ・トゥールの五点、ダ・ヴィンチの五点、中でも特にムリーリョの作品に感動。これで、ルーブルの旅は終わった。ナポレオン3世のゴージャスな遺品とみすぼらしいホームレスの好対照。雨の中、ホームレスの人々は、いかに雨露をしのいでいるのだろうか。一人ぼっちになると、なぜかしら経済格差のことが、頭をよぎった。ありがたいことに小生は、貧しいながらも夕食をとり、ワインも飲んだ。体調は、すこぶる好調だ。
オルセー美術館へ入り浸る  
今日は寝覚めが悪く、八時に起床。十時前の出発となった。オルセー美術館の開館は、九時三十分。小生が着いたころは、大行列で、30~40分待ちだった。一番上の五階より見て回ることにした。すると、あるわあるわ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ドガ、マネの名画たち。今まで何度も美術館や本で目にした絵画が惜しげもなく並んでいた。今回初めて知ったWilliam Bouguereauのマリアの美しさにも目を見張った。ムリーリョといい、Bouguereau といい、美の極致を言っていると小生は思った。庶民の味方、クールべの絵も光った。女性の局部のみをリアルに表現した絵も印象的だった。そして忘れることができないのは、ミレーだ。「落穂ひろい」の貧しい三人の農婦の姿を直視したミレーの農民への熱き思い、農民夫婦が一日の農作業を終えてお祈りする「晩鐘」。どこまでもミレーの心は優しかった。ゴッホ、コロー、ドガ、ロートレックの絵もあったが、二番目に記憶に残ったのは、モローだった。気の遠くなるような細かい絵の具の塗り重ねの中に見た耽美的な美しさ。現実的にはあり得ない人物像を描き切るところに絵画的な面白さがあるのだと思った。パリで、とても優雅な、少なくとも精神的には、豊かな時を過ごすことができた。ただ残念なことに、食の上では、貧乏根性が抜けず、安上がりに済ませてしまった。パリの外食代は、日本の1.5倍から2倍くらいなので、良いものは、食べることができなかった。今度来るときは、彼女を誘って、リッチに行こうと思った。  
オルセー美術館の五階からモンマルトルの方を見たら、一昨日行ったサクレ・クール寺院のバジリカ大聖堂が絵に描いたように見えた。オルセー美術館から見える景色もさることながら人類が残してきた数多くの絵画を1日2000円程度で堪能でき、本当に幸せだと思う。幸せを求めて、ルーブルやオルセーに来た人に乾杯。楽しい楽しいパリでの5日間だった。次回来るときは、一か月くらいアパートを借りて、そこを拠点に羽を広げてみたい。

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無謀な世界一人旅 ⑰
 ~遺跡だらけのローマへ~


朝食の時に考えたこと
 
 小生の左斜め前に日本人カップル。さらにその奥に同じ年頃の外国人カップル、みんな20代前半か。日本人女性は、マスカラを付け、濃い化粧、ところが外国人女性は、ほとんど何も化粧をしていない様子。自然のままの美しさなのだ。化粧をした美しさよりも、一段と美しさが引き出される、ナチュラルなその姿は、『なでしこ』を思わせる。化粧をする自由、しない自由は、もちろん当人にあるのだが、わざわざ美しく生まれてきているのに、下手な化粧で、美しさを台無しにする手もあるまい。人間は、そのまんまが美しいと小生は思う。みんながするから私もするなんて女性は、魅力に乏しいのである。化粧で勝負をするよりも、ほかの何かで勝負してほしいものである。ちなみに、化粧品の原価率は、高くても10パーセント程度。ほとんどは、コマーシャル代やビン代に充てられているのも心したい。それにつけても、朝食会場で会った日本人の化粧で化けるその気持ちは、小生にはわからない。
 
 ヨーロッパの建物の大きさは、中途半端ではない。とてつもなく大きい。エントランスのある方向を間違えると、5~10分はすぐに歩かされてしまう。地図に世界共通のエントランスマークをつくったらどうだろうか。そうしたら、旅行者も大変助かると思うのだが…。今までなぜ共通のマークが付けられていないのだろうか。二か所以上入口があるところは、その数だけマークをつければ都合がよいと思う。関係者の尽力に期待したいと思う。特に、足の不自由な人や車いすの人にとっては、役に立つと思う。万国に共通のエントランスマークをつくったらと強く思う。

ボルゲーゼ美術館に振られてコロッセオ
 
 ホテルから30分ほどかけてボルゲーゼ美術館へ歩いて行ったのだが、入場制限があり、本日のチケットは、SOLD OUTとのこと。10時前だったので、何とか入れないものかと粘ってみたが、天使の出現は今回なかった。仕方ない。こんな美術館が世の中にあることを知っただけでも意義があると思った。よい次の目標ができた。トホホのホで、ホテルに向かっていたら、地下鉄駅に出会う。チケットの買い方がよくわからず、前の客に声をかけて、教えていただく。またまた天使の出現。ローマの地下鉄の自動販売機は、コインを入れるとそれを押し上げないと入らない仕組み。日本の場合だとお金を入れさえすればそれでよいのだが、ここはローマ、勝手が違う。1.5ユーロを入れて、チケットを買う。テルミニ駅で乗り換えて、ブルーラインで二駅目がコロッセオ。地下鉄のありがたさを実感した次第。とりあえず、コロッセオの周辺を30分くらい歩いていたら、Palatinoの客の行列に出くわす。小生、何があるのかわからなかったが、意を決して、列に並んだ。20分ほど待って、中に入った。ローマの古代遺跡のオンパレードだ。丘の上から見るローマの街には、教会の塔があちこちにみられ風情があった。そして、園内の古代遺跡を目の当たりにしたのだが、古代人の感性というか、スケールの大きさに圧倒されつつその景観を堪能した。しばしば休憩しながら、ほぼ全域を散策。ローマに遺跡があるのか、遺跡の中にローマがあるのかわからないほどローマは、遺跡だらけだと思った。

 次に目指したのは、コロッセオ。券はすでにPalatinoで買っていたので、長蛇の列をよそ目にすぐに入場できた。ラッキー!やっと念願のコロッセオに来たかと思うと、感慨もひとしおのものがあった。薄暗いコロッセオの中を少し歩いてから、二階へあがっていった。円形競技場が見えるところへたたずむと広くて高い階段状の観客席が見える。コロッセオの北側の最上段の積石は、すごく大きくて、最低でも10トンはあろうというもの。今から1700年前の人がどうやって積み上げたのか…。あるガイドは、ロープで引っ張り上げたと言っていたが、そんなに簡単に上がるものか…。現代の科学技術をもってしても、そう簡単にできる工事ではない。コロッセオを見上げる時、当時、搾取されていた人たちの血と汗の結晶だと思わずにおれなかった。かつてコロッセオでは、奴隷を戦わせるなど、野蛮なことがゲームのように繰り返された。その血塗られたところに、観光客が、何もなかったかのように集まっている。かくいう小生も同類なのだが…。
 
 一日の観光を終え、地下鉄のコロッセオの駅に着いた。そこには10代の女性の乞食がいた。着ているものは、きれいなものであったが、立ったままで空き缶を持っているのには、何かしらわからないけど、違和感があった。観光都市ローマの闇の部分を垣間見たような気がした。小生は、お金を喜捨することなしに、その場を立ち去った。明日は、最後の訪問地、ドイツだ。


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無謀な世界一人旅 ⑱    ~最後の訪問地、ドイツへ~

今朝は、サンタマリア・マッジョーレ大聖堂へ行った。朝の清らかな陽光が、大聖堂に差し込み、そこだけが異様に明るい。訪問客も少なく、一か所で朝のミサが行われていた。荘厳だった。祭壇のマリア像の絵は、遠目から見ても温かく、すがすがしかった。朝の冷気をいっぱい吸い込み、十分堪能させていただいた。次に来るのはいつになるのかわからないと思いながら、何かしら感謝の気持ちでいっぱいだった。今日も気持ちだけ喜捨させていただいた。
 
 ミュンヘンの空港でも電車のキップの買い方がよくわからず、イケメンのパイロットにお願いして切符を買ってもらった。電車には乗れたのだが、ガイドブックのミュンヘン中央駅で降りることができず、通過してしまった。駅の表示が、ガイドブック通りではなかったのだ。仕方なく近くの車いすの人を連れた男性に尋ねた。引き返せということであった。彼らが下車しようとしたので、小生も一緒に降りて、引き返そうと思った。階段を下りないと引き返すことができなかったので、お礼に車椅子の一か所を支えさせてもらった。そしたら男性の一人が駅員に、何番ホームか聞いてくれた。持ちつ持たれつの旅がそこにあった。
 何とかミュンヘン中央駅に引き返したが、地下鉄U4の乗り場が分からず、四苦八苦。尋ねに尋ねて、やっと地下鉄へ乗車することができた。降りるべき駅に着いたが、方角がよくわからず、コンパスを使ってみたもののホテルは不明。犬も歩けば棒にあたるではないが、スーパーにあたった。周りにレストランみたいなものがなかったので、水と赤ワインと食料を買い込んで、ホテルに到着。今回の旅の中では、一番いい豪華なホテルにあたった。ホテルの窓からは、高層マンションが林立しているのが見えた。ミュンヘン中央駅から三キロメートルほど西に来たところで、ベッドタウン的なところであった。
 朝の朝食は、コンチネンタルだったけど、卵やトマト、フルーツ、ヨーグルトなどもあって、フランス、イタリアのとは雲泥の差だった。朝食が味気ないと元気の出具合が違ってくる。ドイツ人は、朝、しっかり食べて、よく働くのであろう。

 今日は、天気が今一歩なので、できるだけ歩くのを控えて、ノイエピナコテーク及びアルテピナコテークへ行ってみようと思った。どちらの美術館も日曜日は、フリーデーで無料だった。ノイエで印象に残ったのは、セガンティーニの農作業の農夫の絵とミレーの農夫一家の絵だった。ゴッホの『ひまわり』も、しかと見た。他に印象派の絵やクリムト(二点)の絵などがあった。その他、コッホの水のうまさに舌を巻いた。水が生き生きと流れていた。水が描けるのは、一流の証拠だろう。アルテで会った最初の画家は、名前は忘れたが、400年ほど前の画家で丹念に精密に生き物や植物を描いていた。感動の連続であった。二番目に出会ったのが、ヤン・ブリューゲルであった。人間技を越えた絵がそこにあった。米粒よりも小さいくらいの人間の姿を無数に描けるなんて、なんと表現したらよいのか。すごいとしか言いようがない。バン・ダイクやルーベンスはあか抜けている。ラファエロやダ・ヴィンチ、ボッチチェリは無論だが、このほか目についたのが、フラバトール・オメロ、フィリッポ・リッピなどである。
 ドイツは、小生にこんな贅沢な日を用意していてくれかと思うとうれしくなってきた。駅に帰る途中、歩行者天国で、ビールを一杯だけ堪能。一人で飲むビールは、どことなくわびしく、秋風が吹く感じであった。やっぱり、ビールは仲間と飲むのが一番だ。
 
アウグスブルクへ
 今日が月曜日だったのが、運のつき。ドイツでも月曜日が休みの所が多かったのだ。日本を出てから何回か、月曜日があったのにどこも休みの所にあたらなかった。たまたまラッキーだったのだ。仕方なく、開いているところへ行く以外に手はなかった。そこで行ったのが、アウグスブルクの旧市庁舎の黄金の間であった。アウグスブルクは、滋賀県長浜市と姉妹都市で、結婚式の打掛などが展示されていた。長浜市が贈った大皿の文字が90度傾いていたので受付の人に、訂正させていただいた。小生でも役に立ったことが嬉しかった。
 外に出ると雨。雨の中DOM教会へ行くも、お休み。教会が休みなんて信じられなかった。美術館もお休み。オヨヨノヨだった。気を取り直して、ULRICH教会を目指す。笑顔の素敵な受付の女性に敬意を表し、教会を出る時、一ユーロ喜捨。厳かな教会を独り占めにしていた時間は、何とも言えない豊かな時間であった。頭の中は、からっぽで、過ぎゆく時間を楽しんだのだ。市内マップを見ると市民ギャラリーがあったので、WCへも行けると思い、足を向けた。なんとそこは、アウグスブルク版の『イオン』ともいえるような所だった。WCに行くと番人がいて、0.5ユーロの標識。日本では考えられないが、払わないとWCに行けないので、コインを入れて用を足した。倉敷のイオンでトイレが有料だったら、どうなるのだろうかと思うと楽しかった。
 その後、足の向くまま気の向くまま市内をぶらついてみる。知らない街にたたずんでいる自分が不可思議だ。今回の旅で、月曜日であることがこんなに恨めしかったことはない。まあ、よい経験になったと、自分に言い聞かせて、アウグスブルクを後にした。 

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無謀な世界一人旅 ⑲     ~帰国の途に就く!~ 

ミュンヘン空港ラウンジにて
 
 今朝は、レジデンツ美術館へ行った。およその場所は、地図で分かっていたが、正確な位置が分からない。何人かの人やポリスにきいてみたが、わからなかった。あまり有名な美術館ではないのであろう。犬も歩けば、美術館にあたるで、やっとの思いで到着。部屋数が170以上もあるというが、WCが極めて少なく、各部屋はすべてと言っていいくらい続いており、廊下を間仕切りした感じである。確かに、調度品や美術品により支配階級の権威をそこに見たものの、生活が真に豊かであったのか疑わしい。普通に考えても、生活するのが不便である。その点、庶民の家ならば、トイレに行こうと思えばすぐ行ける。お城には、1FにしかWCはなかった。有り余るほどの富を手にしたものが幸せになれるのか、小生にはよくわからない。それにしても、外国の建物はでっかい。エントランスは早めに確認しておくべきだとつくづく思った。
 
 旅に出るまで、大原美術館のことを『世界の大原』と考えていたが、それは、蛙のたわごとであった。もう二度と『世界の大原』なんていえない・・・。残念!外国の美術館のすごさは、これでもかこれでもかと名画が目白押しなのだ。その数たるや言語に絶する。大原美術館は、日本ではすごいと思うが、世界の美術館に比べれば、・・・であった。もちろん、それで大原美術館の価値が下がるというのではないが・・・。

帰国の途に就く
 
 ミュンヘンからデュッセルドルフに飛んで、いよいよ帰国の途に就くことになった。デュッセルドルフのラウンジではなんと読売新聞が置いてあった。久しぶりに見る日本の活字が懐かしく、うれしくもあった。帰りの飛行機の中では、失敗してはならないと自重して、ワインは控えめにした。
 
 成田空港に到着し、京成電鉄で羽田に向かった。車窓から見える日本の景色、平凡だけど美しいと思った。手賀沼のずっと北の方に筑波山が見えた。初めて見る筑波山であったが、富士山のような形をした山は、筑波山だと勝手に思ったのだ。これが、我が故郷、日本だと思った。日本語が使えると思うとひと安心であった。そして何かしらわからないが、『やればできる』という変な自信にも似た気持ちをもつことができた。

 たった22日間の旅であったが、小生にとっては、貴重な経験であった。今回の旅を終えて思ったことは、人間って素晴らしいということであった。困ったときに手助けしてくれる天使がいることが分かった。確かに小生から財布を掏った悪い奴もいたが、それ以上に、小生を助けてくれた人がたくさんいた。特に、中国人、韓国人の人たちに感謝したい。日本人の中には、彼らをさげすむような人たちがいるが、とても寂しいことである。茶道の世界一つ取ってみても彼らの祖先が焼いた茶碗が国宝や重要文化財として燦然と輝いている。茶道の世界には醜い差別はない。よいものはよいとする世界なのだ。
 今後もし、日本人がグローバルな世界に生きていくというのなら、将来、北朝鮮を含めた北東アジアの人々が、平和共存できるような地域共同体を作っていくことを考えなければならないと思う。今の安倍政権は、平和外交を追求するのではなく、北朝鮮からミサイルが飛んできたらどうすればよいとかの宣伝をテレビで流している。(2017・6現在)圧力をかけることばかりを口にする。これでは、国民の恐怖をあおるだけである。情けない政府に怒りを感じる。。
 
 話が脱線してしまったが、今回の世界一人旅でも思ったことだが、すべては、足を一歩踏み出すことから始まるということだ。英語もドイツ語もフランス語も話せない小生が、若気の至り(笑)で各地を回って来ることができたのだから、人生は、楽しい。多くの人は、基本的に保守的である、足がなかなか前に出ない。一歩足を踏み出すのは、大変な勇気がいる。小生は、いつでも一歩踏み出すことのできる人生を送りたいと思いながら生きている。旅だけでなく、人生の節目節目で、足をどう踏み出していくのか、「最初の一歩」が肝腎だといつも思っている。今の生活に満足することなく、次の「最初の一歩」をどう踏み出していくのか、今考えているところである。
 
 最後になりましたが、「無謀な世界一人旅」に最後までおつきあいいただきましてありがとうございました。小生の拙い旅日記がみなさん方の人生の旅に何らかの糧となれば幸いです。      完
 

旅の友2点。上は、背中に背負って22日間持ち歩いたリュックサック。これ一つで世界旅行ができる!
右は、コンパス。どこに向かっているか方角が分かる小さくても最強のアイテム。











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