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相談活動30年の信頼!ひとりで悩まず、まずは相談してみましょう。子育て・教育なんでも相談ネットワーク

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〒700-0822 岡山市北区表町1-4-64 上之町ビル3F

ネットワーク通信バックナンバーREPORT

 No.110(抄)
 INDEX
 
 忘れ残しのあれこれ ④ 相談ネットワーク設立に向かって  
               元代表世話人  難波一夫
 豊かな共生社会を子どもたちへ        
               岡山短期大学准教授     山口 雪子
 
 世界史と基本的人権 元高等学校教員   高 階 重 和
 発達障害について(その1)
                 臨床心理士: 福田 求           
  今の私を責めないで、未来の私を励まして 生まれ育ち、学びながら育つということ⑧
学校風景 Ⅱ  その8 高卒認定フジゼミ講師  志賀 兼允
 花ごよみ

忘れ残しのあれこれ ④        
       相談ネットワーク設立に向かって            
               元代表世話人  難波 一夫

一九九〇年(平成二年)七月二十二日(日)
  この日、子育て・教育なんでも相談ネットワークは、設立の声を高らかにあげました。
 当日は「今こどもたちは・・・。開こう心の目を、耳を傾けよう 心の叫びに」をテーマにシンポジュウムが開かれました。
 折から、神戸で女子高生の校門圧死事件があった後だけに、学校管理体制・校則をめぐって、津山鶴山塾の藤原先生、岡山大学医学部の塚本先生、弁護士の水谷先生、高校の森口先生をパネリストに活発な討論が展開されました。
 新聞などにも大々的に報道されました。
 明日は、いよいよオープンです。
 期待と不安が入り混じるなか、テレビがローカル番組で実況中継してもよいかと尋ねてきていたので、「いいですよ」と返事をしておきました。電話二台での対応です。いよいよです。
 九時半、「リンー、リンー」
「はい、相談ネットワークで す」
 つづいて、すぐ「リンー、 リンー」
 相談員の八木原さんとわたしは、元気モリモリで待機していただけに、二人の声が大きくなりすぎて、相手の電話の声が聴きづらいのです。
 声を落としているのですが、いつの間にか大きくなっていて、部屋の中を右へいったり、左へいったり、片耳をふさいだりして対応しました。大変疲れました。
 相談のなかみは、色々でしたが、やはり学校へ行けない子どものお母さん、おばあちゃんからの相談が一番多かったのです。
 その頃テレビの画面にテロップが流され、大変混みあって約二時間待ちと出ているのです。これは大変だと思いつつ、覚悟ができたので、かえって落ち着くことができました。
困ったのは、休憩時間もとれないからトイレにもいけなかったのと、喉の渇きを癒すことができなかったのです。
 この日のことを時々「あの時は大変だったなあ」と思い出話を八木原さんとよくしていました。

その後、その日の相談の事例を総括して、最も多かった不登校の子どもたちの心のうちを「理解」しようと、話し合ったものです。
 「ネットワーク通信」3号に「私の願い」として、学校に行けなかった当時を振り返った女子大生が書いてくれています。これが貴重な学習資料になりました。

🍀学校に行けない・・・
🍀人にわかってもらえない・・
🍀誰かに聞いてもらいたい・・・
🍀傷ついてしまった・・・
辛さ

これをみなさんは理解できますか。多分理解できないでしょう。なぜなら、そんな立場に立っていないからです。
 私は、私をそんなにした家族、親、世の中に何も言うつもりはありません。
けれど、そうなった原因を見つけるよりも、今の子どもたちの気持ち、心を考えてあげるのが一番だと思います。
 いま どういう気持ちなのか、どう思っているのか、それを「聴く」体制をとってもらいたいのです。
 私には、大人の人の考えはありません。けれど、私が生きてきて、私自身が色々考え悩んで、・・・今は自分の考えで十分だと思います。
 心はみんなあるけれど 伝えられない人もいる
 それを 心で助けてやりそして一緒に考える
 子どもはみんな素直だが 強がる子どももいる
 それを心で援けてやり 素直にしてやることもいる
 子どもはみんな待っている 心を開ける人を・・・

 そうです。子どもたちはみんな待っているのです。思いっきり心を開いてイライラ・ムカムカ さびしさ、むなしさ、・・・その辛さ、苦しさを「理解」してくれる先輩を待っているのです。
 この「理解する」とはどういうことなのか、これからはじめていこう。さらに、対処はどうしたらいいのか・・・・ということを学習実践していこうと決めました。

豊かな共生社会を子どもたちへ        
               岡山短期大学准教授   山口 雪子


こんにちは、いつもご支援たまわり、誠にありがとうございます。山口雪子です。
 世間では新型コロナウイルスの感染脅威など、さまざま心配なニュースが流れていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?皆様の暮らしが大事なく平穏でありますよう願っています。 私自身は、新しい年がはじまったと思っていたら、既に昨日は立春!時が経つのは早いなぁ…と感じています。時の速さのように、私の問題も早く解決すれば良いのですが、思うようにはなかなかいかないと実感しています。今日は昨年末にご報告させていただいた岡山労働局からの受諾勧告通知(調停案)の双方受諾、その後の途中経過を報告させていただきます。
 先の通信で報告させていただきましたように、授業に関する調停は双方隔たりが大きく調停案は示さないと結論づけられましたが、授業以外については合理的配慮が不十分として協議による解決をするよう示されました。この調停案に従い、年明け1月6日に初回協議が行われ、今後の協議方法や内容について話し合いをしました。短大側は、私が求めている合理的配慮というものがどのようなものかわからないとの話でしたため、情報提供や移動支援の必要性などを具体的な場面を例示してお伝えさせていただきました。短大側は持ち帰って、過重な負担にならないか、学長が許可できるか等、慎重に検討して返答するとのことでした。次回協議は3月初旬に予定されています。
 最高裁決定後の協議申し入れを短大側が拒絶したことを考えれば、具体的な合理的配慮があるかどうかは別にして、今回協議に応じたことは一歩前進ととらえています。ただ、上述していますように授業についての調停案は示されず、短大側も「授業に関する協議は一切応じない」と明言しています。以前から申し上げておりますように、障害者は何でもできる訳ではありません…障害によって「できないこと」の自覚があるからこそ、自分に「できること」を磨いて社会参加しようと努めています。その「できること」が私にとっては研究・教育であり、授業です。単なるわがままで授業に戻りたいと言っているのではなく、将来の共生社会のため、あるべき保育者養成校として短大が発展して行くためにも、障害者の働き方として授業についてまずは話し合ってほしいと切望しているのです。どうやったら短大側に理解していただけるのか…さまざまな手を尽くしてきていますが、解決の糸口が見えないのが現実です。
 このようなことを書きますと、皆様にご心配ばかりかけてしまいますね。ごめんなさい。でも、きっとまだ着手していないだけの手立ても何かあるはず…と弁護団の先生方と検討していますので、大丈夫!ご安心ください。私に起きている問題は人権侵害に当たらないか?人権救済申立てはできないか?障害者の働く意味をテーマにした企画ができないか?…いろいろ考えています。何か検討していることが具体的になりましたら、改めて報告します。またもし、何か思い浮かぶ手立てがありましたら教えてください。弁護団の先生方とともに検討したいと思います。
 授業外しの通告を最初に受けたのは2016年2月初めの学科会議でした。もう丸四年になります。問題に背を向け、短大を辞めれば済む話と全く考えずに今まで来たかと問われれば、答えは「いいえ」です。どれだけ私一人が泣き寝入りすれば終わることだと思ったでしょうか…それでも投げ出さずに問題に向き合い、今があるのは皆さんの存在があるからこそです。皆さんからいただいた励ましや協力を支えに今まで来ました。そしてこれからも前を向いて問題解決を目指します。ご心配ばかりで恐縮ですが、どうか今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 暖冬とはいえ、寒暖差が大きく、インフルエンザに加えて新型コロナウイルスと感染症が心配な時期です。どうぞ皆様、ご自愛を怠らないよう、お大事にお過ごしください。皆様のご多幸ご健勝を心より祈念しています。
ありがとうございます。
 2020年2月5日
       山口 雪子
 
がんばれゆっこ通信No.39より引用

 2018年11月、ある重要な裁判の判決が下されました。視覚障害のある岡山短期大学の准教授、山口雪子さんが、「障害を理由に授業の担当から外されたのは障害者差別だ」として、学校法人を訴えていた裁判で、山口さんの勝訴が確定したのです。しかし、まだ山口さんの教壇復帰のめどはたっていません。山口さんの裁判を通し、障害者への差別をなくすために必要なことを考えます。

提訴までの経緯
 2014年1月、学長から呼ばれた山口さんは、事務員が退職するため視覚支援をできる人員がいなくなることを理由に、退職を考えるよう言われる。
 視覚支援は自費で雇った補佐員に学内で行ってもらうことで問題はクリア。
 2016年2月、今後は授業を担当させず、学科事務に専念するよう通告を受ける。理由は、「授業中の飲食、教室から抜け出すなど、学生の不適切な態度を見つけて注意することができない」というもの。
 短大側は、教員ではない「補佐員」が学生を注意することを禁じていた。視覚障害があることをわかっていながら、その責任を負わせようとする姿勢に、山口さんは絶望的な気分になった。
 それでも最初は、話し合いでの解決を求めたが、糸口すらつかめず、やむを得ず、裁判に訴えることを決断した。

「裁判になると学生たちが心を痛めるかもしれないとは思いましたが、私は学生たちに、より良い社会をめざす者として、問題があったときに目を背けず取り組むこと、解決をめざすことが大切だと伝えてきました。自分がそれを破ることはできない、学生たちに嘘をつくことはしたくないと思って、障害者を排除するというこの問題に向き合おう、そのためには裁判しかないと決意しました」(山口さん)
2019年ラジオ番組「教壇復帰をめざして~山口雪子さんに聞く~」より抜粋しました。


世界史と基本的人権 元高等学校教員   高 階 重 和

終戦後、私が「まず学ばねばならない」と痛感したのは「世界史」「人類史」でした。
 戦時中は、「国史」「東洋史」「西洋史」に分かれていて、「世界史」「人類史」としての学習は望めませんでした。
 さらに、「歴史は『暗記物』だ」と言われて、単なる史実の羅列を記憶するだけの学習に終始していました。
「なぜ」「どうしたら」と考えて、広い視野から総合的に考察する姿勢を育てられる機会は得られませんでした。それは、「科学」ではなかったのです。
 その上、さらに歪められ、虚飾され、否応なしに一つの価値観へと思考を誘うものとなっていました。
 真実が隠蔽され、正しいことを「知らされなかった」と気づき、慚愧の極みでした。
 現在の日本の状況を見るとき、「生きる」ことに精いっぱいで、なかなか学習する機会が得られない状況にあります。その中で、テレビによる報道には世界の情勢を広く偏らずに伝える努力が不足しているように思えてなりません。世界各国の人々が、それぞれどんな問題を抱えており、どんな対応をしているか、そして、それとの国際的な関わりはどうか等々、もっともっと知りたいと思います。
「知らされない」ということがどんなに大きな『罪』であるかを思い起こしています。同時に、「知る権利」を守ることの重大さを強く感じております。
 戦前戦中までの統治の中心に「知らすべからず、寄らしむべし」が据えられました。
 ところが今日でもそれが続けられて活用されているように思えてなりません。
 原発事故の際に、応急手段の第一歩として、破損状況を知るために、人を送り込むときの放射能に対する対応の仕方には、「放射能の恐ろしさ」への『無知』を思い知らされました。次第に認識が広まってきましたが、まだ外国人労働者を使ってその片付けの仕事をさせるなどしているのは、生命にかかわる重大な差別であり、ここにも「知らすべからず」の論理が残っているように思えてなりません。
 日本は、原爆の被害を受けた唯一の国です。それなのに、「放射能の危険」についての徹底的な国民教育はなされることがありませんでした。むしろ隠されてきました。そして今日でもなお「原発の安全神話」を固守して、原子力発電を続けようと、次々に復活している状況です。
ヨーロッパの主要国が次々に「原発廃止」へ進んでいる状況がどれだけ熱心に日本国民に伝えられているでしょうか。「原発廃止」「核廃絶」への熱意がどれだけあるのか疑わしくなります。
 国民は、もっと貪欲に「知る権利」を行使する必要があります。
 唯一の被爆国である日本の国民が、放射能の恐ろしさを、正しく他の国の人たちに教えるほどに、正しく知っていなくてどうしますか。
  歴史学習が科学学習であってこそ、基本的な人権は「国民固有の権利」であることがはっきり自覚されます。
 基本的人権は、国王や国家によって「与えられたもの」ではありません。人類の長い歴史の中で、幾たびか騙されたり奪われたりしながら、やっと守り抜き勝ち取った権利なのです。(97)
従って国家権力に対抗できる権利なのです。だからこそ、「不断の努力」でこれを守り抜かなければならないのです。
基本的人権は「私権」ではありません。ですから沖縄を犠牲にしたり、福島を見捨てたりする差別は、そのまま全国民の基本的人権が損なわれているのであって、他人事ではないのです。それを自覚することが、主権在民の国の主人公に必要不可欠のことだと強く思います。
 世界史を学ぶと、なぜ民主主義が大切なのかが分かります。そして、民主主義の歴史を学べば幾たびも騙されたり、奪われたりしながらその度に不屈に起ちあがってとりもどし、新たに勝ち取ってきた民主主義と人権の尊さが分かってきます。
 それらはそのまま今日の情勢にも活かされてきます。   たかはし しげかず

発達障害について(その1)                 臨床心理士: 福田 求
           http://nonohana.sunnyday.jp

自 己 紹 介      
 この度、相談員として参加させていただくことになりました 福田 求(もとむ)と申します。高校教員を定年退職後十年間、スクールカウンセリングや私設の“ののはな”教育相談でのカウンセリング、あるいは中国学園大学などで心理学を教えていました。三月で古希を迎えることもあり、今までの経験を活かしながらさらなる老後をささやかに頑張りたいと思っています。何卒よろしくお願いいたします。
 
はじめに
 
 専門高校一年のA君(色白で黒縁眼鏡、細身で小柄、真面目そう。)は十月の中頃になって、「クラスメートと普通に話しかけたいが、それができない状況をどうにかしたい。」と訴えて来談した。「どうでもいいことは話し辛いし、そもそも何を話していいかわからない。」「孤独感から頭痛や腹痛があり、最近では自己臭にも悩まされているので、欠席も増え、成績もかなり落ちてきている。」と言う。
母親は、A君が小さい頃から自分の話したいことを順序立てて言うことが苦手だったり、人の言いたいことがわからないので会話が成り立たなかったりするので、いつも心配している。中学校の頃、アスペルガー障害と言われたが本人に告知するべきかどうか迷っていると言う。
 養護教諭や担任の勧めで来談した普通科高校二年のB君(やや猫背で中肉中背。性格は穏やかそうだが目線が定まらない。)は、体がだるく気持ちも不安定。何をしてよいかがわからずゲームをしたりTVを観たりしているので勉強の時間が作れず、今まで課題は一度も提出したことがない。小さい頃からじっとしていられず授業中でもそわそわ歩き回り、ミスをごまかすためによく嘘をつくので、学校や家でもあきれられていたと言う。中学校からはADHDとの情報が届いている。

 A君のような「自閉症スペクトル障害」やB君のような「ADHD」、それに読み・書き・計算・推理などの限られた領域に機能障害がみられる「限局性学習障害」などを総称したものを発達障害といっています。これからはこの紙面をお借りして、発達障害の分類や原因、あるいは特徴や支援などについて述べていこうと思っています。忌憚のないご質問やご意見などお寄せいただければ幸いです。

① 発達障害の分類 
 DSM「精神疾患の分類と診断の手引き」〈APA〉による)

 日本では発達障害の分類は、米国の精神医学会(APA)が発行する「精神疾患と分類と診断の手引き(DSM)」によることが多いようです。以前、使われていたDSM-4によれば、発達障害は「広汎性発達障害(PDD)」と注意欠如多動性障害(ADHD)、それに「学習障害(LD)」に大別されていました。さらにPDDは「自閉性障害(自閉症)」と「アスペルガー障害」、さらに「特定不能のPDD」に分けられていました[表1]。

        
 PDDの中でも社会性・コミュニケーション・創造性の三つの障害〈注〉がすべて認められるものを「自閉性障害」、その中でコミュニケーション障害が比較的目立たないものを「アスペルガー障害」とし、「自閉性障害」や「アスペルガー障害」の要件は満たさないが、何らかの社会性や創造性などの障害が認められるものを「特定不能のPDD」としていたのです。
 しかし、PDDの症状や程度は複雑でしかも連続していることから、DSM-5では、PDDは「自閉症スペクトル障害(ASD)」(一部は「社会的コミュニケーション障害」)に置き換えられています。そのため、A君のような特徴を持つ場合には、「PDD」や「アスペルガー障害」あるいは「ASD」などと一見異なったように見える診断名が付けられることもあるのです。

 [表1:発達障害] DSMーⅣ             DSM-5(2013年~)

*広汎性発達障害〔PDD〕          ➡    *自閉症スペクトラム障害[ASD]
   *自閉性障害(自閉症)
      a)社会性の障害
      b)コミュニケーションの障害   ➡    *社会的コミュニケーション障害
      c)創造性の障害(こだわり)
   *アスペルガー障害(a,cが顕著でbがない)
   *特定不能の広汎性発達障害
*注意欠如多動性障害(ADHD)  ➡    *注意欠如多動性障害(ADHD)
*学習障害(LD)             ➡    *限局性学習障害(SLD)

〈注〉
a)社会性(対人関係)の障害 ※ 人と付き合いにくい
・対人的相互反応を調節する多彩な非言語性行動(目つき、表情、身振りなど)が上手く使えない
・発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗(独特の理屈を持つ、相手の気持ちが読めな い)
・自ら楽しみや興味、成し遂げたものを他人と共有することを求めない
・対人的または情緒的相互性の欠如(心が通じないなど)
b)コミュニケーションの障害 ※ 話が成り立ちにくい
・話し言葉の発達の遅れまたは完な欠如 ・オウム返しをした独特の言い回しをしたりする
・他人と会話を開始し継続する能に顕著な障害(一方的にだららと長く話す)
c)創造性の障害(同一性保持)※ こだわりが強い
・異常なほど常同的で限定されたの、一つまたはいくつかの対への興味だけに執着する
・特定の機能的でない習慣や儀式かたくなにこだわる(一度決た道順や並ぶ順番などに固執する)
・常同的で反復的な衒奇的運動(手をパタパタさせる、空中で文を書くようなしぐさをするなど)

 今の私を責めないで、未来の私を励まして 生まれ育ち、学びながら育つということ⑧ 学校風景 Ⅱ  その8
高卒認定フジゼミ講師  志賀 兼允

 今、学校に限らず、社会全体に「マニュアル化」が蔓延している。あらゆる部署で、マニュアル、マニュアル・・・である。そして、人々はマニュアル通りに事を進め、安心し、納得している。物事がうまくいかないと、「マニュアル通り」に進めたのだから「私のせいじゃない」となる。「マニュアル」の不備のせいにして、自己責任から逃れられる。機械やロボットじゃあるまいに、物事に対応する時、マニュアル通りにいかない事の方がはるかに多いはず。マニュアルから外れて判断し、事を進め、何かの不都合が生ずると、すぐに「マニュアルを逸脱した君のせいだ!」と自己責任論が振りかざされて、追及される。
 寅さんシリーズの山田監督は「昔の先生は、立派な生活者だった・・・いくら制度を作ったって仕方がない・・・戦後すぐの時期は管理が行き届かないから、面白い人や、変な人、出来損ないのままで教師になったりした、だから学校も陽気で騒々しくて、ごちゃごちゃしていた。そういう時こそ、個性が伸びていくんじゃないかしら、・・・だから、今のように、きれいに管理された学校じゃ、見た目はきれいだけど、子どもたちにはとてもつまらなくなるのは当然じゃないかな」と。
 本来、憲法に制約される以外、自由であるべき教育活動が、今、「みてくれ」にこだわり、画一化の道を歩んでいる。そして、こうしたマニュアル化された人間模様が、人々の支配に使われ、勤評と言う形で教師の前に立ちはだかり、内心さえ支配されていく。
 上からの規格化=画一化=序列化によって教師支配が貫徹されていく。あたかも教師が児童生徒を支配するように・・・。
 実際、現在の教師は、S・A・B・C・D(サビシイデーと読む=(笑)の五段階の評価で計られ、給与にさえ反映されている。上からの権威と財による支配=被支配の関係。
「画一的な指導の下で序列化され、評価される指導の中で育つ子どもたち。マニュアル化された指導基準を強要される教師群。こんな風景の中で、本当に子どもの発達の保障は実現できるのだろうか。みんな、それぞれが、生きて今ここにいる事を喜びあい、自分らしさのままに仲間と手をつなぎながら生きていこうと前向きに歩んでいけるのだろうか。
 大切なことは、「それぞれらしさを確かめ合える自由な生き方」であるはず。「みんな違ってていいのだ」「君が、きみらしく。あなたが、あなたらしく」と自由と平等の原則に立つ民主主義の風土の中では、「朝の会・帰りの会」「服装点検」や「各種委員会」「学校行事」などが「マニュアル化された規格化」にすがる事から解放され、安心して失敗が許され、モタモタしながら支えられ、責め合うのではなく、許される関係の中から、人間は信頼していいのだという事を学んでいく。自由な空気の中で、「主体的で創造的な、今でしかない、君たちでしかできない」活動が保障され、自律的で、自立的な力を高めながら大きく自分を育んでいく。そして、こうした教育風土の中で、学校自身も大きく変わっていくのである。  当局の弾圧にも似た強烈な指導の下で行われた学校の卒業式、しかし子どもたちは、そんな制約の中にあっても、全員が五つのパートに分かれて、卒業証書を受け取るときのBGMをハンドベルで演奏する事を提案し、その要求が実現されると、私立や推薦で少し早く進路を実現した仲間を中心に、自分達の三年間を思い描きながら、自分達の言葉で綴り、「私たちの卒業式」を作り上げていく。他にも、体育館装飾委員会、うたごえ実行委員会、保護者対策委員会、などなど、思いがけない委員会を勝手に作り、子どもらが動き出す…まさに集団のうねりである。まかせられた不安よりも、より良いもの作り上げて自分たちの卒業式を誇りあるものに仕上げようとする。生徒たちの力の限りを束ねながら(映像がありますので、関心のある方は、是非見てやってください)。  そして、卒業式の最後に、教師のだれ一人として知らされていなかった、ぶっつけ本番のサプライズが始まった。突然、各クラスの代表が、学年の教師の前に走り寄って、一人一人の教師への感謝の言葉を感動的に語り始めるという「勝手な事」をして、教師を泣かせたのである。式後「先生、泣いた?」とイジワル気に聞いてくる。  人間が互いに信頼しあえた時、自由な行動は心温まるドラマを用意してくれる。「子どもは大人が考えるほど子どもではなく、大人は子どもが考えるほど大人ではない」のである。マニュアル化されたみてくれの画一主義からは感動を生まれないし、創造的な人間は育たない。支配|被支配の関係からではなく、自由に解放された人間臭さの漂うヒューマニズムの精神によって貫かれる「自由と平等」の土壌からこそ人間ドラマが豊かに形成される。そんな「民主的な」風土の中で育まれる生きた人間づくり。その事こそ、学校が集団の力を借りて実現すべき姿ではなかろうか。そして、彼らが未来を作る力となってくれる、モタモタしながら支えられ。  しが かねみつ  



花ごよみ

歳の初めの福寿草  黄金の色の暖かく
つづいて香る梅の香に   鶯鳴かぬ里はなし

雛の祭りの桃の花 ほころび始めて山々の
桜も咲けば梨すもも  みな一時に紅白の
花の眺めの美しさ

野辺も山辺も新緑の  風に藤波騒ぐとき
池水匂う  かきつばた  垣根に絡む朝顔の
咲き変わりつつ  潔く

夕暮れに咲く  月見草  月見の頃の近づけば
蓮の巻き葉に宿る珠玉(たま)

桔梗 撫子 女郎花 萩 葛 尾花 藤袴
秋の花草多けれど  なかにも君の千代八千代
祝うや菊の花の宴

いつしか木々もうら枯れて 淋しき庭の山茶花や
北風寒き藪陰に 琵琶の花咲く  年の暮れ

 子どもの頃、母親が縫い物をしながら歌うように口ずさんでいた。「今のはなあに??」「・・・花ごよみ」「なにそれ」「花でつづる一年の花のこと、それが花ごよみ」「どこで覚えたん?」「学校じゃったなあ」今年もよろしくお願いします。                  N



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