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「ネットワーク通信」連載記事あ・ら・か・る・と

今の私を責めないで 未来の私を励まして

生まれ育ち 学びながら育つということ
高卒認定フジゼミ講師 志賀兼允

故志賀兼允さんが、会報「ネットワーク通信」に連載されてきた記事「今の私を責めないで 未来の私を励まして」を、HP向けに編集して再掲させていただきます。連載途中での筆者のご逝去が、悼まれてなりません。あらためて、ご冥福をお祈りします。
「No」はネットワーク通信のナンバーです。順序が相前後しますが、編集済みのものから、少しずつ掲載していきます。順次増補していく予定ですので、ご期待下さい。
 

目 次
No.92 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その1
No.93 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その2
No.94 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その3
No.95 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その4
No.96 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その5
No.97 10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その6
No.98 学校風景 その1
No.99 学校風景 その2
No.100 学校風景 その3
No.101 学校風景 その4
No.102 学校風景 その5
No.103 学校風景 その6
No.104  学校風景 Ⅱ その1
No.105  学校風景Ⅱ その2
No.106  学校風景 Ⅱ その3
No.107 学校風景Ⅱ その4
No.108 学校風景Ⅱ その5
No.109 学校風景Ⅱ その7
No.110 学校風景Ⅱ その8
NO.111 学校風景Ⅱ その9
No.112 学校風景Ⅱ その10


 
 No.92
     10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その1
 寅さんシリーズ」の山田監督は「先生は立派な生活者だった。・・・いくら制度を作ったって仕方がない。ただ教師を信頼して何となくルーズで大雑把にするしかないんじゃないかな。教育制度をいじらないという風に腹を決めなければいけない。戦後すぐの時期は管理が行き届かないから面白い人や変な人、出来損ないのままで先生になったりして、学校も陽気で騒々しくて、ごちゃごちゃしていた。そういう時こそ生徒の個性が伸びていくんじゃないかしら。明治維新もそうだったような気がする。だから今のように、きれいに管理された学校じゃ、見た目はきれいだけど子ども達にはとてもつまらなくなるのは当然じゃないかな。」

 10年ぶりの同窓会は、ひょんなきっかけから始まった。毎年、賀状を届けてくれる「あゆみさん」からだった。「先生!私―。あゆみよ!」「おうお~!久しぶりじゃ のお、どうしたんまた・・・ 唐突に、といういうか、 いきなり・・・気でもふれた かあ?」
「相変わらずね、可愛い子 からの電話じゃけん、ち いたあ気の利いた返事が 出来んのん」
「すまん、すまん、へえで もどうしたん突然に、そ れより今、どうしょうる ん?」
「私、今、保母さんになっ とんよ!昔、先生がよう 廊下のすれ違いざまに『あゆみは優しい心を持っ とるけえ、幼い子ども相 手の保母さんが似合っと るなあ!』言うたん覚え とる?」
「そういやあ、そう言よう たなあ」
「ほんで高校出て、資格とっ て今、公立の保育所で働 いとるんよ。私が保母に なったんは先生のせいじゃ けえなあ、後悔したら先 生のせいじゃけえ・・・」などとたわいのない会話が続く。
 しかし、まさかそんな事で電話をかけてきたわけでもなかろうにと思いつつしばらく世間話が続く。ひとしきり話題が尽きた頃、突然、
「実はねえ、今日電話した んは、別に先生の声を聴 きとうてしたんじゃない んよ(笑)あのねえ、びっ くりせんといてえよ。太 一が結婚することになっ たんよ!」
「太一が?ほんまかあ、そ りゃあびっくりどころか、 驚き桃の木じゃあ。とい うか感動もんじゃなあ!」「じゃろお!太一の事じゃ けん、どうしても先生に は連絡せんといけん思う て、電話しとるんよ!そ れでねえ、一つお願いが あるんよ。先生じゃない といけんのんよお!・・・」「そりゃあ、喜んでするけ ど、なんならあ・・・?」「あのなあ、先生にしか頼 めん事なん、そして、絶 対に誰にも言ったらいけ ん内緒の事なんよ」・・・

 その年、私は新一年生受け持つ予定であった。しかし新三年生が学校全体を揺るがせにしかねないほどに「荒れ」ていたので、「何とかしなければ」という事で大幅に校内人事が組み変えられ、連続して三年生に居座ることになった。この学年は通称「ツッパリ七レンジャー」(?)という名にしよう、世間でいう「悪がき軍団(?!)」がいた。喫煙は元より、授業中徘徊し、他教室へ侵入し、授業妨害、果てにはバイクに乗って廊下を走り回る・・・。外にあっては万引き、恐喝、無免許運転などなど・・・誰が施設に送られてもおかしく無い状態であった。

 学級開きの日、私は、いつものように、ギターを引っさげて皆の前に立った。そして、
「志賀のチャームポイント はなあ・・三つある。それ はなあ~」しばらく間を おいて・・・
「白髪に、入れ歯に、裸足 じゃあ。ということで、 一年間、諦めて、だらし なく、汚げな担任じゃけ ど、付き合ってください ませ。という事で、よろ しく、ヨロシクです。」いきなりの予想外の一声に、一瞬、教室が凍てついたけど「きたねえなあ、おみゃあ!」とか「風呂にゃあ入らんのかあ」などなど、一気に空気が和む。そして、決して、受験だの、最高学年としての自覚などという七面倒なお言葉は言わずに、ただただ、ギターを弾きながら歌を歌って初めての出会いの時間を創った。一年間の教室の空気に自由な予感が拡がった瞬間だった。(中略)

 一学期が終わりかけた時、私は、校内での喫煙指導の後、彼らに声をかけた。「おい、夏休みはどうする んならあ?」
「何の予定もなあよお、どっ か先生連れってくれるん か?」と挑発気味に反応 してくる。
「よっしゃ、仙養ケ原いう 県北のキャンプ場へ毎年 星観に行くけえ、わしと 一緒に行くか?」
「ほんまかあ、嘘じゃろ!」「わしら連れて行っても碌 な事せんでえ。ええんか あ?それでも・・・」
「『した約束は守る、出来ん約束はしない』が、わしの方針じゃけえ、行く 気があるんなら、一緒に 車に乗って行こうやあ」・・・ということで、夏休みに入ってすぐの土日に一泊二日の予定で、でかけることになった。条件は、「人様の迷惑にならない。わしの目の前でたばこを吸わない」だけだった。    つづく

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 No.93
10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その2
                 
出発当日、彼らは、それぞれのいでたちで、すでに待っていた。そして、私の姿を見るなり、
「先生、ほんまじゃったの お」
「何があ?」
「いやあ、キャンプに連れ て行ったる言うた約束」「なんにゃあ、嘘じゃと思っ とんたんかあ」
「別に・・・、じゃが、絶対、 なんじゃかんじゃあ言い ながら、中止にするじゃ ろうなあ言うて、昨日  まで、皆で話とったけえ な」
「おみゃあらあ、わしの事、 信用出来ん思っとったん かあ?ワシのほうが裏切 られたような気がするな あ・・・まあええ、ほんじゃ、 行くでえ」
という事で、出発した。
 
 当日、七レンジャーのうち一人は欠席、小学生三年生の息子も入れて八人が車に乗り込み、キャンプ場に向かった。荷物を載せるとギューギュー詰めの中、この年のツッパリキャンプは始まった・・・。キャンプ場までは、ほぼ一時間あまりで着いた。事前にロッジを予約してあったので、受付をすませ、そこに移動した。すると、
「すげえ、ここへ泊まるん か?ええとこじゃのお」「『屋根がない、水がない、 何にもない、野宿みたい なとこじゃ』言うとった けど、先生、可愛い嘘つ いたなあ、ええとこじゃ ん」
―始め良ければすべてよしーである。その後の展開は思いがけなくスムーズに運んだ。日ごろ、グータラで、チンタラ大儀そうに動く彼らだが、重い荷物をロッジの中に持ち運び、
「先生、これどこへ置くん?」とか聞きながら天体望遠鏡を移動させたり、夜のバーベキューセットを組み立てたり、あっという間に準備はできた。予定より早めに段取りが終わったので、周辺を散策する。Mが、
「こまあ時(小さい頃)に、 よう家のもんに連れてき てもろうたけどど・・・」と、幼いころの話を始めた・・・。そして、両親の離婚、家族の離散など・・・自然の中で、自分の来歴を誰にせかされることなく語りだすと、同じような来歴を持った太一も共感しながら話の間に入りこむ・・・晴れた空と、明るい陽射しが、ひとり一人の気持ちを解放させるのだろうか、聞きもしないのに、それぞれが、自分の言葉で語りながら話が弾む・・・どれくらいたっただろうか、夏の陽射しは長いとはいえ、しばらくすると、陽がゆっくりと落ちてきた。そして、みなで、ワイワイいながら、バーベキューの準備を始め、箸をつついた。多めに準備していた肉や野菜もあっという間になくなり、暗闇が迫ってきた。そこで私は「腹もいっぱいになったと ころで、気もだめしでも するかあ?」
と提案すると、
「うっそ!先生、真っ暗で え、怪我したらどうする ん?それに道がよう見え ん!」
「馬鹿じゃなあ、道がよう 見えんけえ、肝試しにな るんじゃろうが」
「先生はどうするん、ここ でわしらをじっと待っと るだけじゃろう?」
「馬鹿言え、ワシが最初に 行って、この先の神社の ほとりにある井戸で待っ といたるけえ、そこまで 一人ずつ、二分おきに歩 いて来い!その先に、神 社みたいのがあるけえ、 そこまで到着した証拠と して、割り箸を半分にし たものを六本、番号をつ けて一人一人に渡すけえ、 神社の奥まったところに キツネが祭ってあるトビ ラをあけて、その番号と 同じ割り箸を探し持って、 帰ることにしよう」
「うっそ!一人で行くん? 先生、わしら、ここらへ ん初めて来たんでえ、先 生は何回も来とるけえ慣 れとんじゃろうけど・・・嫌 じゃあ、こんな真っ暗な ところ、頼むけえ、二人 にしてえやあ!」
「なにいうとんならあ、い つも学校でえらそうに闊 歩しとるもんが・・、ひと りで来い!」
「頼むけえ、二人以上にし てえやあ」
と言い張るので、仕方なく、二人一組で、肝試しを始める事になった。なんだかんだといいながら、一五歳の中学生。怖いものは怖いのである。素直な姿がむしろかわいい。日ごろのツッパリ姿は、夜の暗闇の中では消え失せている。肝試しの出発前に、
「ここらへんは、山ん中、 昔は、あんたらも聞いた 事があると思うけど、姥 捨ていうて、口減らしの ために年寄りが捨てられ たりした場所で、今でも 時折、人の死骸が出てく るし、山で遊んでおった 子どもらが行方不明になっ て帰って来んようになっ た話も残っとる。特に、 これから行く目的地の神 社の横にある井戸は、そ の昔、三人の子どもが、 井戸の中から、ヌッと突 き出した、ヌルヌルした 長が~~~い、手のよう なもんで、ここら辺の人 は、死霊の手じゃいうと るけど、その手で足首を 引っ張られて深い井戸に 落とされ、行方知らずに なったという言い伝えも ある。その井戸の前で、 わしがまっとるけえ。わ かった。」
「先生、なんでそんな話す るん?わしゃあ幽霊きら いじゃけえ、行かんでえ、」など口々に訴えるように言い出す。声が震えている者もいる。少年の幼げな心象が怯えとなって、必死に肝試しそのものをの中止を提案してきた。
「わかった、ほんなら、全 員で行くことにしよう。 ほんならええかあ?」
互いに眼を合わせながらも、逃れられない事を悟ったのか、結局、全員で肝だめしをすることになった。私は、ロッジにつながる細い山道をまっすぐに神社のほうに向かった。細い山道は、両側が山に囲まれた谷のようになっており、枝が大きく広がる高い樹木の中に低い樹木によって囲まれる、月夜の晩でも、足元が見えなくなる暗闇が続く。ロッジから見ていると、まるでタイムトンネルに入って姿が消えていくような奇妙が風景に見えるはずである。・・・私は、歩いて五分ほどで着く神社の祠の陰に隠れて待っていた。しかし、二分後に出発するようにといっていたのに、十分ほど待っていても、一向に人が歩いてくる気配さえない。私はさすがに心配になって、ロッジへ向かった。すると・・
        (つづく)

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 No.94
    10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その3=
    
ロッジに引き返してみると、
「皆で話し合って『「恐ろしいけえ、やめよう』いう事になって、やめたんじゃ」となったそうだ。
「そりゃあすげえ、何がすげえかいうて、『皆で話 し合って決めた』言うところがすげえじゃないか!話し合って決めたんなら、仕方がない。『何事も話し合って決める、それがすごい』」と、言って、私は特に、茶化したり、責める事もせず、皆で決めたことに従う事にした。
「へえでも、せっかく計画したけえ、わしと一緒にならええじゃろ?神社まで行ってみようやあ、帰 り道から見る星がなんともいえんけえなあ、へえで、帰ってきてから星空観察じゃあ!」
「先生もしつけえな!ほんまに!分かった、先生と一緒なら行くけえ、途中で変な話をしなんなあ」「分かった、何も言わずに行くけえ・・・」
ということで、みんなで神社まで歩くことになった。神社の中は真っ暗闇。時々、足元の石ころや、段差に躓くたびに、恐怖の声(笑)をあげながら、何とか目的を果たし、闇夜体験を終えた。帰りに向かうは道は同じ道であっても風景がまるで違って見える。それに、肝試しを終えた余裕もあってか、空を見上げながら、
「先生!すっげえよう星が見えるぜ!」
「どれが天の川なん?」
などと言いながら、ロッジにたどり着いた。
「ほんじゃ空の調子もええけえ、星でも見るか!」と提案。16cmの高橋の天体望遠鏡と、10cmの宮内の双眼鏡、そして、5cmの手持ちのニコンの双眼鏡3台を8人で使うという贅沢な観望会。夏の夜の星は、大きな感動を作ってくれる。沈みかけている三日月。写真ではよく見かける月のクレーターも生の姿は感動を呼ぶ。いきなり
「すげえ!先生!おい、見てみい!」
と叫びながら順番に覗く。次々に雄叫びに似た声をあげながら、譲り合って覗く。そして、
「おい、先生の息子にも見せてやれえやあ」
と言って、背丈の低い息子を後ろから抱えるように持ち上げ、接眼レンズの覗き穴に眼を当てながら、
「オイ!見えるかア?」
などと見せている。いい風景である。
 闇夜の中で、姿はみえず、声だけが届いてくる。今ここにいる彼らは、日ごろの突っ張り軍団ではなく、好奇心旺盛な少年の姿そのものである。折りしも、土星が東の空から見えてきた。私は16cmの高橋をそちらに向け、土星のわっかを入れて、再び彼らに覗かせた。
「おい!写真と一緒じゃ!わっかが見えた!すげえ ~」
「おい、おみゃあらも見てみいや!」
次々と覗き始める、そのたびに、
「ほんまじゃ、写真といっしょじゃ」
「あたりまえよお!教科書の写真と違おうとったら、 おかしいじゃろう!」「先生、情緒がなあのお! 本物を見るんと写真じゃ、感動が違うんよお~」
と叱責される。そして、代わる代わる幼い小4の息子を誰かれとなく抱えながら「オイ、息子、見えるかあ!」と声をかけながら気遣っている。生まれて初めて『天の川』を確認し、更に双眼鏡でみる無数の星々の群れ。時折流れてくる流れ星に「あっ!流れた!」
「どこや、どこ?わしゃ見えんかったどお」
「そのうち、また、どこか で流れるけえ、全体を見渡すように眼を空に向けてみい!というか、寝っ ころがっておったら、よう見えるぞ!」
など声を飛ばしながら、ワイワイ、がやがやとにぎわしい時間が流れていく。「先生、土星や月のクレー ター見た奴、えっと(たくさん)おる?」
「写真で見たもんはおるけど、ほんものを見たもん は、そうえっとおらんはなあ!」
「ほんなら、わしら本物見たんで、自慢できる?」「そりゃあ、自慢できるわあ。帰ってからそこらじゅ うで自慢しちゃれえやあ」などと、夜空に見た感動の世界の体験を励ましながら時間が過ぎて行った。
 その後、小さなやぐらを組んで火を起こした。そして、少しの花火に興じながら、疲れて眠くなった息子をロッジに寝かせた後、飲み物を口に入れながら、夜の会話が始まった。夜の闇の中で燦然と灯された炎のせいであろうか、日ごろ見せない落ち着きのある静かな口調で話が始まる。夜の話は一層内実の深い話になっていく。
「先生、ワシがおかしうなったんはなあ・・・」
と、過去の時間を辿りながらも、未来を予見できない苛立ちの中にいる自分の姿に嘆息しながら、未来に対する不安を訴えくる。(中略)

 一泊二日という短い旅であったが、いい時間であった。夜の静寂と闇夜の中に、日ごろの突っ張り軍団の姿はない。素朴な感動表明。落ち着きのある自分語り。無邪気で、時にあっては内省的で無垢な精神。荒れ果てているように見える彼らの内奥が晒され、洗われていく。人間が本来的に持っている心底に潜む、温かく柔らかな人間的な姿が見えてくる。弱音を吐き、自分の中の悶々たる悩みを出し合うという相互の関係性が新しい信頼感を高めていく。人間はおしなべて信頼していいという思いを刻む事ができた。そして、彼らにとっても、一つの大きな転機になったのだろうか、二学期からは、荒れは相変らずであったが、互いの言葉のやりとりが絡み合う会話が成り立つようになった。(中略)かなり前書きが長くなったが、太一は、この七人衆の一人であった。
       (つづく)


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 No.95
     10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その4=
太一は、少なくとも中二の二学期までは、普通の子だったと皆が言う。
「先生は去年までのわしら を知らんじゃろうけど、太一は、突然、革靴はい て、モヒカンにして、学 校に来たんでえ!わしら もびっくりしたぐらいじゃけえ。ほんま、人は一日 あったら変身する言うけ ど、ほんま太一は変身も 変身も、大変身したんでえ」
仲間が言う事を、太一は、ただ笑って聞いていた。詳しくは応えなかった。ただ「朝起きたら、おやじが 『後はよろしく、さようなら』と手紙を書いて、家からおらんようになった次の日ぐらいからかな あ」
と、ぼそぼそと応えた。予想だにしていなかった突然の家族の崩壊、親しい者の別離、よほどの衝撃だったのだろう。一等大切なものを失った時に人が見せる反転する姿。彼が話す以上の事を聞かずに黙って聞いていた。
 もちろん、一泊二日のキャンプで出かけていくだけで、彼らが落ち着きを取り戻したわけではない。夏休みも、二学期に入ってからの生活ぶりも、少なくとも表向きはおおきな変化はなかった。ただ、言葉がクロスするようになった。そして、人の言葉を受け入れ、内省的な振る舞いを見せてくれた。今までは、まるでビニールひものようにするりと抜けていた互いの結びつきが、荒縄が絡み合うように結びついてきたように感じた。

 受験が近づいたころ、私は、家族との最後の懇談で、一人ひとりに内申書を見せることにしていた。私は太一の内申書には「いつも集中して授業を受け、積極的に発言していた」と書いた。太一は、
「先生、これ、誰の事?」「おみゃあのことよ」
「嘘じゃろう、わし、いっつも、授業中、騒ぐか、寝るか、どっちかしかしてねえのに」
「じゃけえ、寝とるときは、静かに授業に集中しとったわけじゃし、騒いどったときは、積極的に授業 にかかわっとった、というわけじゃ。全く、嘘でもないじゃろ」
「先生、ありがとう」
太一は安心したような顔と、信頼感にあふれた顔をして、嬉しそうに母親と顔を見あいながら笑っていた。
 太一は、受験前頃には、なんとか落ち着き、高校に入った。しかし、何が彼を再びそうさせたのか定かではないが、すぐに喫煙で退学させられた。私の「太一!人は、とにかく、働くか、学ぶか、どっちかをしとらんと、碌なことがないけえ」という言葉を受けて、中退後、しばらくラーメン屋で働いていた。しかし、突然、連絡が取れなくなり、どこかに消えてしまったのである。七人衆をはじめ、太一を知るもの皆が心配していたが、十年近くたっても音信不通で、気になりながらもいつか、遠い思い出の中の風景の一員になっていっていた。
 そんな折の「あゆみさん」からの電話であった。

 そうそう、「あゆみさん」の事を少し、紹介しなければなりません。彼女は、実は、七人衆がいつも「かわいくて、はきはきした、俺好みの女よお」「あゆみに睨まれたら、言う事きかにゃあいけんような気になる」という小学校時代からの彼らの憧れの人だった。私は担任をしていたわけでなかったが、そんな彼女の存在を知って、よく、廊下のすれ違いざまや、教科で授業に出ていたときに、かなり意識的に声をかけ、関係性を高めながら、困っときに、力をかりて支えてもらった。何事にも、批判的精神を持ち合わせ、教師の権力的対応に対して、きっぱりとして意見を持って七レンジャーを守っていた姿も、彼らには頼もしく思えたのかもしれない。一方で、よく私に向かって「七レンジャーと話ができるんは、先生だけじゃけえ、あいつら守ってやってね」と励ましてもくれた。
 
 そのあゆみさんが、電話の向こうで「先生、太一の結婚に、ビデオメッセージを届けて!」というお願いであった。もちろん喜んで引き受けた・・・。

 太一の結婚式が終わった後、携帯電話に一本の連絡があった。太一の母からのものだった。
「先生、よう太一の事を覚 えてくれとって、ありが とうございました。」
 私は、晴れの舞台を迎えた息子の今日までの育ちの苦労をねぎらった。電話が太一に代わる。
「先生、びっくりしたよ、声を聴いた瞬間、志賀ちゃんだとすぐわかったよ。 涙が止まらんかったよ。 ホンマに中学校の時、迷 惑ばっかりかけとったけ え・・・本当にありがとうご ざいました。」
口調も違えば、言葉遣いも違う…太一は電話の向こうで泣いていた。つづけて、懐かしい七人衆が次々と電話に出る。最後に伯君。
「先生、いっぺん皆で会いたいのお」
「ほんまじゃ、わしも会いたいぜ」
と応じる。そして、最後の最後に亜由美さんが電話に出る。
「先生、マル秘作戦、大成 功じゃったよ!・・・という事で、「皆、会いたがっとるし、都合つけてね。 多分、先生の事じゃけえ、断らんと思うけど・・・」
という事で、実に十年ぶりの同窓会が、急に決まった。      つづく

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 No.96
     10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その5=
                 
十年ぶりの「ツッパリ同窓会」は市内の居酒屋で行われた。今の自分、かつての自分、そして、新しい生命を生み出したわが子と未来の自分たちの話。
「先生、いっこも変わっとらんのお、わしら、十年たって、すげえ変わったでえ。なあおい、十年い うのは、人が変わるには十分の長さじゃあ・・」
と、嘆息気味に語るのは太一。
「えっと人を心配させといて、何言うとるん(笑)でも、今日はあんたが一番!」とあゆみさん。そこには、あの中学時代のあらゆるものを拒絶するかのような、鋭く、人を放つような眼差しはない。穏やかで和やかで優しいまなざしは、人は変わる、間違いなく変わることを伝えてくれていた。

 目の前の太一は、父親の突然の失踪から、離婚。自らも、それを機に、自暴自棄からくる荒れ。怠学。高校中退、再入学したものの再び退学、就職、離職、行方知れず・・・そして、今、結婚、出産、新しい命を前に・・・様々な時間の巡りの中で、色んな不安・不信・絶望が錯綜しながらの苦労を何とか乗り越え、屈託のない笑顔で、今を語っている。それは何も太一に限らない。みながみな、それぞれ違って道を描きながら、懐かしい顔に自分の今を重ねている。それにしても、である。こんなに自立的で、心優しい人格の持ち主が、なぜ、中学時代に、世間でいう「荒れた」のであろうか。人は一人では荒れない。かつて暴走で暴れまくっていた生徒が、「だれもおらんとこでバイク走らしても、いっこもおもろねえ。人がぎょうさんおって、その中でパトカーに追っかけられるけえおもしれえんよ先生!」と言った事があった。まっ くそったれが!思うて恨んで、また、やったるでえ、と思うておしまいじゃもんな!」
「それと、いっぺん、先生に相談室に呼ばれたことがあったじゃろう?覚えとらんかも知らんけど、 その時、なんかして怒られるばあ思おうて、ビクビクして部屋へはいたら、いきなり、『ラーメン食い行くけど、暇かあ?』『ほんで、その後、みんな でここで勉強会じゃ!』ゆうたことがあるじゃろ。そんとき『説教百よりラーメンいっぱい』言うとった意味が、後になって気付いたけど、あんときも びっくりしたんでえ。へえでも、その後、ここで 日曜日じゃ言うのに、ようみんなで勉強したよなあ」
すると、
「家に来たことがあるじゃろう?家庭訪問でもない のに、ほんで、おかあが、『あんた、なんかしたん?』言うてきたけど、いつものことじゃけえ、どのことで来たんか、考えとったら、玄関先で『ちょっと近くまで用があってきたけえ、どうしょうるか思うて、寄ってみたけど、 元気で親のいう事聞いとるか?』だけ言うて、すぐ帰ったことがあるじゃろ?ありゃ、ほんまびっくりしたでえ、用もねえのに、勝手に家にくんな思うたけど(笑)・・・」

 十年ぶりの再会は、たわいもない話題で満たされたけど、普遍的な内容が含まれていた。それは、人間が生きているという事の意味を伝えてくれるものであった。
「小学校時代から、ずっと教師というのは、あれしろ、これしろいうて命令調。ほんで、あれしちゃいけん、これしちゃいけんいうて、しちゃいけんことばあ言うて窮屈な人種。ほんで毎日、毎日、宿題が出て、やっとらんかったら怒られるばあした。教師いうもんは、めんどくさくて、口うるさい人種。学校は、まるで刑務所のような息苦しくて窮屈なところだった。自分がいかにダメ人間なのか思い知らすところが学校ぐらいにしか思えんかった。認められない自分を思い知らされ、存在感がなくなっていく毎日。ほんとうは、皆と一緒におりたかったのに、勉強もして分かるようになりたかったけど・・・勉強ができん言われたら、どんだけ辛くて、みじめな思いになるか、先生らはよう判ってくれなんだ」「だれも気付くどころか、しまいにゃあ、馬鹿にしくさる」「ほんで親も一緒になって怒り出す。ほんまどうしてええか分からんようになったもんで。」とも言った。

 互いの十年の巡りを伝えあうには二時間という時間はあまりに短い。しかし、再び会えたことを確かめるには十分の長さでもあった。時間を埋めるもどかしさを感じながらも、時間がすぎ、会が終わりかけたころ、伯君が、
「先生、今日は、わしらが、先生を指導するけえ、そこで正座し・・・」
と威嚇するように立ち上がった。      つづく
 

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 No.97
     10年ぶりの7レンジャーとの同窓会=その6=
    
「先生、みやげじやあ!わしらの気持ちじやけえ、受け取つて!」と言つて、いっものポリデントと靴下と小さな箱を手渡してくれた。 私は中身の分からない小箱を皆の前で開けた。それは黒光りのする『COMME.CADUMODE』と銘打つたシヤレた携帯用灰皿であった。
「先生、覚えとる?」
「?」
「あんなあ、ようわしらがトイレでタバコ吸うとる時、ゆっくり一人でわしらのたまっとる所へ来て『おい、どうしとんならあ、こんな所で?』言いながら、わし等とおんなじようにべべチャンコして、 話を聞きに来たような顔をして近づいて来たじゃろう?わしらは煙草を思わず後ろに隠したけど、先生にはバレとったはずじゃのに別に怒る事もせんで『どうしたん、授業は、とうの昔に始まっとるけど…』と笑いながら近づいてきた事がようあったなあ。そして色々わしらの話を聞いてくれ、その後、にこにこしながら『ほんで、どうするんこれから---』と問うて、約束させられたよなあ。怒っとる時は、いっつもニコニコするけえ『こりゃあ相当、腹の中じゃあ怒っとるなあ』と思いながら、教室へ戻ったけど」
「いつじゃったか、よう覚えとらんけど、わし等が教室に戻ろうとした時、先生が『もう、トィレや渡り廊下に煙草の吸い殻を捨てるなよ。片づけるもんの身にもなってみい』言うて『今日、携帯用灰皿を持ってきたけえ、ポイ捨てだけはすんな』言うて、わし等に3 つほど携帯の灰皿くれたことがあったろう?あれにやあ、びっくりこいたよ。 『お前,ほんまに教師かあ?!』教師にも色々おるんじゃ思うた。というか、わし等の話を聞いてくれる大人がおって、信じにゃいけん人もおるんじゃ思うたよ。
実はなあ、先生、わし、あの次の日から煙草止めたよ。気づいとったあ?まあええわ、そぎゃあな事は、実はな、先生は今日もスパスパ煙草吸うとったけど、昔、胃癌にもなっとったんじゃし、もう年なんじゃけえ、それに長生きしてもらわんといけんけえ、皆と話しおうて、一日、携帯用灰皿いっぱいになるくらいに煙草を減らしてという事でみやげにしたんよお。今日は、わし等がたばこ指導するけんな」
と笑いながら品物の説明をしてくれた。
「全部話したら、もう会うても話題がのうなったらいけんけえ」ということで、というより明日の仕事と家族を思う優しさからか、一回目の再会は予定時間を若干過ぎたけど三時間余りで閉じる事となった。懐かしい記憶を呼び覚まされながら、次の再会を約して、10年ぶりの同窓会は終わった。
「学校」は今、客観的装いをした浪費を重ねるだけの無意味で虚しい数値で人を計り、人間に対して攻撃的になっている。曖味さを許さない画一主義がはびこり、人間臭さが消え去ろうとしている。調査・点検主義が人々の自由な精神を奪うだけでなく、物理的にも子どもとのかかわりの時間を奪い去っている。学校が形式主義に陥り、社会から隔絶された特殊な世界に閉じこもるとき、温もりのない、金属的な人格が生み出されていく。それは学校がもはや人格を磨く場から、'材料としての人材の育成の場にに変質していることである。
学校はもっとあいまいであっていいのではないだろうか。というか、社会そのものがもっとおおらかで、あいまいなままでいいのである。人間は、そもそもロボットのような性格でもないし、ボタン一つでいいいなりになる存在でないのである。「にんげん~~~、なんとすばらしく響く音なんだろう」いいなあと思う。そこには、宗教も言語も民族も何の壁もないのだ。 連帯して生きていける人間の姿がそこにある。今を共に生きている人間同士のふれあい、ささえあいがあるのだ。という・・。学校は、もっともっと、もっと自由でおおらかで、毎日通いたくなるような、楽しい空間であっていいのではなかろうか。そして「幸い時には辛いと言え」「うれしいことがあった時は、 うれしい!」と叫び、それをみんなで共感しあえる信頼と安心に満ちた時空間の中でそれぞれらしさがふるまえる、そんな場所であるべきではなかろうか。10年ぶりの同窓会、その出会いの後、私はそんな思いを抱きながら家路に向かった。
「教育において、第一に成すべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいという事を、身体に覚え込ませる事なのです」(永井均)
「生きる理由がうまく見つけられない人に、人生が生きるに値するものだと納得させるのは難しい。生きる事は楽しい事だという肯定感が底にないと、自分の人生をしかと肯定できない。 だから子どもに不幸な傷があっても、それ以上に楽しい経験をまわりが与え続ける事。ルールを教えるのはその後だ。」(折々の言葉43朝日新聞2015.5.l4)
「私にとって最悪だと思われるのは、学校が主として、恐怖、力、人工的な権威とというものを用いる事です。 そのような扱いは生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です」(アインシュタイン)
☆後日談:太一は数年前、 大きな造船所を辞し、職人仲間数人で起業し、社長さんにおさまっている。毎年、結婚して授かった二人の子どもらの成長ぶりを伝える賀状を見ながら「人間は一人残らず違う」のであり「人間的なかかわりの中で」「必ず変わりうる」という事を伝えてくれた仲間に遠い所から幸い多き未来の道を!と祈るのである。

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  No.98
学校風景 その1

 はじめに
 人が生きるという事は、希望を失い、自棄に堕ちる事ではなく、今ここに生きているという事の尊厳が保たれ、自らが願う幸いの道を手繰り寄せる事であり、第三者がとやかく論ずるものではないはずのものである。

 新入生の中にヨーコ(仮名)という名の生徒がいた。背筋をしっかりと伸ばし、何事にも前向きにテキパキと応じ、明るく快活な生徒であった。授業中も積極的に挙手・発言し、自分の考えをしっかり持っていた。そんな彼女は仲間からも慕われ、信頼感あふれる存在であった。とても中学一年生と思えぬ感性で次のようなメッセージを生活ノートに書いてきてくれた
「私はみんなへのお願いを考えた。
 まず親へ・・・勉強しなさいだけじゃなく、少しは子どもの勉強を見てください。子どもにさみしい思いをさせないでください。子どもにいろいろ聞いてください。考え事を相談してください。子どもを親の高みに縛り付けないで、少し自由にしてください。ほかにもあると思うけど、今はこれだけにします。
 次は先生へ・・・みんなともっと話してください、遊んでください、たまには、みんなの気持ちを考えてください。成績などで、ひいきしないでください、間に合わないとかで、急いで授業をしないでください。先生たちにもまだあると思うけど、これだけにします。 お次は、日本の政治へ・・・とにかく最悪な日本をどうにかしてください、どうなってんですか。今の日本、悪いこと多すぎです。がんばってください。お願いします。私たちの番になったら、私たちもいい日本を作るようにがんばろうと思いますんで!
 次は、子どもたちみんなへ・・・親、先生になんでも相談してみませんか。ひとり子どもだけで考え込んでいると、病気になりますよ。親、先生は必ず力になってくれますよ、そうそう、あと、ナイフ、エアガンはやめましょう。日本は、もう戦争しないと誓ったんです、ナイフは刃物、エアガンは鉄砲みたいなもんだから、しようと思えば小さな戦争になります、とにかく何でも話そう!」
 
 そんな彼女は、当然のように、自ら進んで生徒会に立候補し、学年委員長になった。生徒会に入っても、持ち前の前向きさで、何事にも積極的に取り組み、与えられた課題だけではなく、一年生らしい新鮮さで独創的な提案もしてきた。「将来は、国連で働きたいんじゃ」と、大きな夢を持っていて、英語の時間を楽しみにしていた。文化祭では、特に演技力に優れていて、およそ中学一年生とは思えない情感のこもった深い表現力で、学校全体で話題にもなった。そして、初めての中学校の文化祭を終えた時、この学校の三年生が伝統的に演じてきた生命の深い意義を伝える感動の演劇「グッバイ、マイ」を観て、
「先生、私、三年になった ら、ぜったい『グッバイ・ マイ』の「緑子」をやる けえ!絶対あの役、私に やらして」
と懇願気味に訴えてくるほど、演劇に強い関心を示していた・・・(中略)・・・
 
 二年生になった。一学期は何事もなかった。二学期も大きな事件は起きなかった。しかし、三学期の始業式の日。ヨーコは「金髪、ロングスカートに黒い革靴」という、とんでもない「いで立ち」で校門をくぐったのである。        つづく

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 No.99
学校風景 その2

校門に立っていた生徒指導担当の教師は、はじめヨーコと気づかなかったという。むしろ彼女のほうから「先生、私よ!わかる?」と声をかけてきて気づいたほどだった。そんな彼女は、すぐに生徒指導室に呼ばれて事情を聴かれたが、うまく教師をかわしながら、その場を逃げ切り一時間目の授業に入った。当時、私達の学校は、生徒がどんな姿で登校しようと教育を受ける権利を守る立場から、教室から追い出す事はしなかった。
 教室に入って、一番驚いたのは、教室の仲間たち。「そりゃあそうじゃろ先生!他のもんならともかく、ヨーコで~、誰が、信じる?まさか、まさかじゃもん!」と、その日は、まさに驚愕の一日の始まりだった。勿論、職員室でも大きな話題になった。担任教師が放課後、家庭訪問もしたが、彼女の変身ぶりの原因が分からないまま2年生最後の学期は始まった。放課後、授業が終わると、帰りのHRをすっぽかし、いつも必ず立ち寄っていた生徒会室にも顔を見せず、さっさと帰って行った。

 その後のくらしぶりは、みるみるエスカレートし、毎日のように遅刻、早退。授業中もかつてのような覇気のある姿勢はなく、盛り上げてくれた活発な挙手、発言もなく、けだるそうな態度で、眼差しもうつろに机の上に伏せて眠る事が多くなった。注意されると、はじめは仕方なく起き上がっていたが、何回も注意されると、ついに「うるせえんじゃ!」と反抗し、教室から抜け出し、大好きな養護教諭のいる保健室へ行った

 成績はどんどん下がっていく、それでも「将来はアメリカへ行きたい」という夢があり、英語の時間だけはがんばりをきかせていた。 何かが彼女の中に起きているという事は、誰もが感じていたが、要領のいいヨーコは、教師の問いかけにまともに応えず、実相に迫る事のないまま、三年生になった。・・・中略・・・

 彼女の急変の原因が分かったのは、三年生になって初めての家庭訪問での祖母からの話と、前後するようにヨーコが信頼している養護の先生との会話からだった

 実は、彼女は父子家庭であった。三歳の時、生まれたばかりの妹を産んだ後、すぐに母親が失踪。その後、父と祖母によって育てられていった。温かく穏やかな環境に囲まれ育ってきたという。そんな彼女の身に、突然大きな事件が襲ってきた。優しく育ちを見守り、家庭を支えてくれて来た父が突然、失踪していたのであった。後に聞いてヨーコの表現によれば、「テレビドラマのような話で、しばらく何が起きたのか理解することができなかった」ほどの衝撃。父は貯金通帳を置いて「探さないでほしい、当座の生活のために通帳を置いておく」と書き残して・・・彼女の様子が変わったのは、この時期からであった
 
 三年生になって生活の乱れは、一層激しくなった。言葉遣いは荒くなり、ついには煙草のにおいをさせながらの登校。校外では、万引きによる補導。薬物(シンナー)利用など・・・。そんな生活が続く中、夏休みに入って家出。それまでも時々家出はあったものの、友達の家にいて、すぐに見つけられる場所にいた。しかし、今回は居場所が分からず、長期にわたった。みんな心配しながらも手掛かりなし。警察にも届けを出した。ただ、私には不思議にひとつの予感があった。ヨーコは必ず夏休み前に現れると・・・それは・・・                   つづく

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 No.100

学校風景 その3
 私の学校では、毎年三年生が「グッド・バイ・マイ」という演劇を実行していた。そして、ヨーコは文化祭が終わる度に「先生、私にグッバイ・マイの緑子をやらせてえね」と懇願気味に訴えていた。

 小野川州雄作の「グッド・バイ・マイ」は、生命の尊厳と生きる意味を深く考えさせられる秀作で、次のような筋書きの脚本であった。舞台は胎内の話。まもなく生まれる予定の三人の子どもらが、生まれた後の世界に夢を描きながら、はしゃいでいる。そこに「生まれてすぐコインロッカーに捨てられる運命」を知ってしまった緑子が登場。誕生を心待ちに待っている「黄郎、青太、桃子」の三人に向かって「なんでそんなにはしゃいでいるの?生まれたからと言って、皆が幸せになれるわけじゃないのよ。あんたたちの未来がどうなるか、そこにいる老人に聞けばわかるよ」と告げ、去っていく。
 三人は自分の未来について知る事に不安を感じ、戸惑いながらも、好奇心に耐えられず、思わず自分達の未来を聞く事になる。そして生まれ行く自分達の未来の厳しい運命を知ってしまう。三人の生まれてからの運命は「黄郎は両手がないまま産まれ」「青太は秀才で友達のいないまま、ある日、受験勉強に疲れてビルから飛び降り」「桃子は、暴走族のバイクに乗り事故にあう」という、生まれた後の運命の一端を知る事になる。

 自分の未来を告げられた三人は生まれ出る事に大きな不安を憶え、悶々と葛藤する。生まれることなく溶けてしまう黒い門の入り口に向かうべきか、それとも生命をいただく地上に続く白い門に向かうべきかと・・・

 その時、老人から「緑子!誕生の時が来た!」との通告。「生まれてすぐ、コインロッカーに捨てられる運命」が待っている緑子。「生まれたって、不幸が待っているだけ、生まれる前に、溶けてしまえば楽になる」と誘われ、黒の門に向かうが「未来の運命は一部であり、すべてではない。運命は自分で切り開くもの。ロッカーに捨てられても、誰かが気付いて助けてくれるかもしれない」と白の門の使者や老人の声に励まされて、白の門を通って生まれていく決意し、白の門をくぐって行く。
 しばらくして地上から生まれすぐの緑子の大きな泣き声を聞き「緑が泣いている、緑は生きたんだ、精いっぱい生きたんだ」と狂喜するが・・・しばらくするうちにその泣き声は途絶え緑子の生命の糸が切れてしまった。

 緑子が死んでしまった事を知った三人は再び悶々とするが「緑は生きたんだ、たったわずかな時間だったが、精いっぱい泣いて生きようとしたのだ」と絶望的な運命に立ち向かった緑子の泣き声に励まされ、それぞれが自分で運命を切り開く道を選び、次々と白の門に入り、地上に向かい誕生していく。
 最後に、黄郎が白い門に入る前に「両手のない僕をお母さんは悲しむ?」と老人に聞くと「一度も悲しんだ事はない」と告げると観客に向かって自分の両手いっぱいに手を広げ、左手をゆっくりみつめながら「グッド・バイ、マイ・・・」と言いながら幕が閉じていく」・・・

 ヨーコは、一年生の時から、この舞台に立ちたいと願っていた。私は、彼女は必ず中学校最後の文化祭、三年生の演劇「グッド・バイ・マイ」のオーディションに姿を見せるという確信に近い予感を持っていた。                     つづく

 

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  No.101
学校風景 その4

そして・・・役者に立候補してきた多くの生徒の待つ中、ヨーコは10時ジャストに久しぶりに見せる照れた笑顔でフラリと学校に姿を見せた。

 二学期を控えた夏休みの最後の登校日。最後の演劇オーディションに多くの仲間が立候補してきた。オーディションとはいえ、立候補してきた生徒は全員何かの役を充てる事になっている。この年、いつも以上に多く仲間が体育館に集まった。その為、黄郎、青太、桃子役には、前後半二人ずつを当て、白の門、黒の門の使者の数を増やし・・・など工夫しながら、全員に役を当てた。コインローカーに捨てられる緑子の役は、ヨーコが一人で通しで演ずる事になった。教育的配慮とかといった甘美な感傷(笑)からではなく、誰もが彼女の表現豊かな演技ぶりを知っており、対抗する者も出てこなかった。

 二学期に入って、本格的な演劇部門の練習は始まった。ヨーコは時々、放課後から登校する事もあったが、ともかく毎日、学校に姿を見せた。「最後の文化祭じゃもんね」と、いつも練習が始まると私に声をかけ、というより自分自身を奮い立たせる呪文のようにつぶやいた。ヨーコは、自分の生き場所を見つけたように「グッバイ・マイ」に没頭した。長いセリフも練習初日から覚えていて、いきなり台本なしで練習に臨んだ。自分の育ちと錯綜させながら、必死で演じているようで、他の追随を許さない迫真の演技を見せ、仲間達を圧倒した。他の役者達もそんな彼女の迫真の演技に影響され、恥じらいを脱ぎ捨て、役そのものの中に、それぞれらしさを溶け込ましながら演じていく。そしてお互いに「こん時、ここで、後ろ向きになって、急に跳ぶように驚いた方がいいんじゃない?」とか「○○君、体育館の後ろに向かって、手を斜めに大きく広げ、もっと大きな声で叫ぶように!」等々、集団そのものが一つの塊となって渦巻き、一つの演劇を大きく育てようと熱を帯びてきた。こうした風景が醸し出されたら、もう何も言うことはない。互いの姿に学びあうという集団の高まりが螺旋的に展開していく。ヨーコ一人が学年の演劇を引っ張ってくれている。ヨーコの存在そのものが集団の核となって響きあい集団の質を高め、新たな文化を生み出してくれた。ヨーコは久しぶりにヨーコらしく振舞った・・・文化祭は感動のうち終わった。(ビデオがあります。関心のある方は、お見せしますので・・・)
 
 文化祭が終わって、ヨーコはしばらくは健気にもがんばりをきかせ、ほんの少しの時間であったが、かつての輝きを取り戻してきた。しかし、文化祭が終わって、学校は一気に入試バージョンに入る。ほとんどの生徒にとっては初めての進路選択。それまでの空気はすっかり消え伏せ、張り詰めた学校風景に変わる。そんな緊迫感の中、ゆるんだ暮らしのリズムを簡単には元に戻すことはできなかったのだろうか。しばらくするうちに、再び元の生活に戻ってしまった。時折、保健室に顔を見せるものの、教室に入ることなく、いつしか、学校からも姿を消していた 
 新しい年が明けた。学校は本格的に入試モード。あわただしい時間が流れる。二か月後には卒業式。そんな三学期の始業式の日、ヨーコは、なんと・・・自分が「妊娠している」ことを担任に告白してきた。           つづく

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 No.102
学校風景 その5

産み育てるという事について真剣な話し合いがもたれた。「新しい生命を誰が、どのようにして育てていくのか」「受験を控えて、君の将来の夢を実現していく道筋はどうなるのか?」など、さまざまな観点から、いろんな教師が語りかけた。それは、不思議なほどに静かな訴えであった。ヨー子もそんな教師の語りかけに、真剣に応え、考えてくれたが「やっぱ、私、産むけえなあ!誰に何を言われようとも」と強い意志で宣言。彼女の意思を翻させる事はできず、なす術もなくなった。初めに決めた意思はどこまでも固く「産みたい!」という意志を貫くばかりであった。そして「もはや、言うに任せるしかない、言えば言うほど意固地になってくる」となり万策が尽きた。しかし・・・現実の問題として、経済的な基盤もなく、老いた祖母に養育を任すわけにもいかず、たとえ目前の高校受験をごまかせたとしても、その後の養育の保証はない

 もはや・・・と諦めかけていた時、ヨーコが教室を抜け出す度に、いつも隠れ家のように利用していた保健室の養護教諭の先生が「実は、ヨーコちゃんの実の親の居場所が分かったんです。どうなるかわかりませんが、一度、実のお母さんに会う機会を作って・・・と思っているのですが」という提案があった。実の母親にと思い至ったのは、一度、保健室でヨーコが、ふっと「私、小さかったからほとんど覚えていないけど、私のお母さんってどんな人だっただろうね。一度でいいから会って話してみたい!」と言った事があるのを思い出し、同じように思い悩んでいた祖母との話の中で、ヨーコの実の母の居場所を教えていただいたのです」という事であった。
・・・中略・・・

 幼い時に別れた母親に出会う機会が作られた。そして、ヨーコの今と未来を母親に委ねることにしたヨーコは、ほとんど記憶にない母親と再会できる驚きと戸惑いを見せながら「先生たち、魔法使いみたい」と嬉しそうに応えてくれ、12年ぶりの出会いが実現する事になった。結果はどうなるかは、まったく予想できなかったが、現状を打破する、何かのきっかけになればと、半ば絶望的ではあったが、かすかな期待を忍ばせながら、二人の出会いが用意された。
 新幹線に乗り込んで、母の待つ駅で降りた。駅近くで二人は出会ったという。養護教諭の先生は、すぐにその場を離れ、二人だけの再会の時間を作った。まるでテレビドラマのようなシーンだが、二人は二時間近く過ごしたという

 どんな話が、どのように進められたのか、分からない、O先生も、あえて、その内容を聞く事もしなかったという。二人にとってもそれは束の間の時間であっただろう、その後の出会いを約束したかどうかもわからない。ただ、再会を果たして、駅の構内で待つO先生のそばにやってきたヨーコは涙を流しながら「先生、ありがとう、未来に対する勇気をもらったよ!」そして「私、産むのをやめる!今、そんな事をしてる場合じゃないもんね」と言いながら、久しぶりに爽やかな笑顔で語りかけた。

 今思うに、果たして、この指導が適切であったのかどうか、定かではない。本当は思うままに産ませてもよかったのかもしれない。学校の、教師集団の体面を保つために、問題をこじらせずに、穏便にと必死になっていたかもしれない。ただ、救われたのは、ヨーコ自身の言葉であった。「私の妊娠、私の初めての生命の芽生えが、母に合わせてくれた。私にも家族があった。私に結び付く家族があった。私は私の軽率な行動で新しい生命を台無しにしてしまったけど・・・それに応える人生を歩みたい・・・」と・・・       つづく

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 No.103
学校風景   その6
卒業式。あでやかな金髪にパンタロン風のいでたちでヨー子は登場してきた。背の高いヨー子は、一層目立つ。学校は、そんな彼女の最後の晴れ姿をそのまま受け入れた。(ここ数年来の「0トレランス」を貫徹させようとする教育現場の風景からは信じられないかもしれないが、今の教育現場については折を見てふれますが・・・)
 彼女は1、2年の成績のおかげで、普通科のA高校に入学して行った。その年の年賀状には「今、学校、休学している。でも、来年からまた通うよ、だから、安心してね」とあった。しかし、次の年、年賀状は届かなった。
 
 私は、ヨーコの最後の演技と巣立つ姿を見てその年12年間お世話になった学校を転勤になった。その二年後、夏休みを控えて、ふっと立ち寄った中学校の近くで、本当に偶然の出会いで、仲の良いM嬢と遊びに来ていたヨーコと再会した。私の顔を見るなり「先生!相変わらず先生のまんまね!安心したよ。転勤してほかの学校に行って人が変わったらどうしようかと思っていたけど、安心したよ」と笑顔で話しかけてきた。懐かしさを込めて、三人で食事をした。彼女に会ったのは、これが最後になった。

 その年の暮れ、彼女の消息を知ろうとM嬢に連絡を取った。その折り、「ヨーコは今、薬物で補導され、少年院にいる」と聞いた。「ヨーコに、また会いたいから、落ち着いたら連絡してえな」と伝えてM嬢との電話を切った。
 それからしばらく連絡がないまま時間が過ぎたが「だから、安心してね」という自分になっていないのだろうか、どんな自分でも自分なのに・・・と思いつつ、彼女の健気さを待っていた。
 しばらくして、意外な所からヨーコの消息が伝わった。というのはタクシー運転手をしている保護者が「先生、キャバクラ前で、ヨーコちゃんに似た女性客を乗せたんで、学校や先生の事を話かけたら、えらい盛り上がってなあ・・・その時『志賀ちゃん今、どうしてる?』って聞かれて、知ってことを全部言ったけえ、また連絡してくるかも・・・」と・・・。
 ヨーコは結局、高校をやめキャバクラで働いていた。しかしお客さんと話す時「自分が高校に行っていない事がひけめになって、なんか自分に自信がもてんでなあ、それで、何とか高卒の資格だけは取りたい!」という事で、三年前、高卒認定試験(旧大検)を受検し合格したという。そして、そのまま今も同じ場所で働いている。
「毎日楽しいけえ、先生、あんまり心配せんでもええけえ、あんまり心配しょうたら、白髪だらけになるよ」と笑いながら話していたという。
 
 キラキラと目を輝かせ、一生懸命授業を受けながら、ハイハイと手を挙げてくれたヨーコの眼差しは生きていた。人を信じ、何事にも真剣に取り組んでいた真摯な姿勢も事実であった。それ故に、一等親しかった家族間の不信。その後の様々な波風体験。ヒトはひとの中で人間になる、どんな生き方を選ぼうとも、その選んで、今、生きている姿を消し去ることはできない。 そして、人はさまざまな関係性の中で、自らの道をめくるように手繰り寄せながら生きていく。どんな生き方であろうと、どんな道を選ぼうとも、その道の歩みを遮ることはできないのである。そして、それぞれが、悶々としながらも「幸せでありたいと」と願っている。

 そもそも何が幸せなのかを他人が判断する事はできない。自分が幸せを感ずることが一等大切なことであり、人間の尊厳は、その人自身の生き方の中で、自分で感ずることなのだから、それぞれが幸せを感じていれば、それでいいのである。 次の同窓会はいつになるのか・・・「だから、安心してね」という自分になってなくてもいいから、再び、生きているうちにヨーコに出会えることを、今はただ、待っている。

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 No.104
学校風景 Ⅱ  その1
  「自分で稼いで食べているわけでもない子どもに、下手に権利なんて覚えさせちゃダメ。ろくな大人にならない」(政策委員の百地章)
「新しい時代に対応した技能や、読み書きの能力、教育の水準を持っていないものは、実質上公民権を奪われるに等しいことを知るべきだ。能力に応じて、支払われる物質的な報酬が与えられないだけでなく、わが国の国民としての生活に完全に参加する事さえ奪われるという意味において、無権利状態になる」(21世紀基本構想)

〇「私にとって最悪だと思われるのは、学校が主として、恐怖、力、人工的な権威と言うものを用いる事です。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは、従順な臣民です」(アインシュタイン)

●高校から受け取ってきた一枚の紙が台所の机の上に無造作に置かれていた。何となく目をやると、「警告書」という恐ろし気な文字が見えたので、「こいつ、又、何かやったのか?」と手に取ってみて、驚いた。その中身は、「警告及び通知」Ⅰ:夏季課題について前回通知したとおり、夏の課題を出さなかった人は、課題考査を0点とします。中間のβの得点=課題考査×0.3+中間考査×0.7としますので、得点に大きな打撃を与えることになります。8月20日(月)6時00分まで待ちます。必ず、そこまでに出せない人は、月曜日に残ってすること。出来てない人も、一応、6時の時点で提出してもらいます。Ⅱ:二学期の課題について、課題の取り組みが悪いので、二学期については、課題も成績に考慮します。定期考査の得点=定期考査の素点×提出物の数/課題の数。今回の課題も対象とします。αもβもこの式を適応します。」
 
 まるで、サラ金の請求書である。いやいや、もはや脅迫状である。「なんで勉強するん?」「生きる事、学ぶこと、学校って何するところなん?」時折、少し怒りを込めた言い回しを聞き、訴えてきた理由がこの一枚の紙からはじめて理解できた。自由な精神を拡げ、未来に向かって豊かな夢を描くだろう高校時代に生きるはずの生徒諸君、こんな学校で暴動も起こさず、耐え忍びつつ通う生意気盛りの高校生の姿がいとおしくもなる。 ●帰りのHRで隣の教室から大きな声が聞こえてくる。「宿題出さんもんは、内申に影響するから、そのつもりで・・・」「勉強できんでも、授業真面目に受けておれば、それなりの事がある。なんぼできても、態度の悪いもんは、成績出んからな」これらは、明らかに脅しである。「分からんでもいいから、とにかく提出せえ!」というのである。つまり、提出した形が出来ればいいのである。「楽しくないし、息苦しい授業でも、黙って聞いてくれる生徒」すなわち、従順で実直な精神が求められている。「分からなくて寝ていたり、騒がしくしたりする生徒は」自分らしく振舞うので悪いのである。「分からなくてもじっと黙っている生徒」が求められ「分からなくて、ごそごそ私語をする生徒」は点数が下がるという仕掛けである。そして「わが国の国民としての生活に完全に参加する事さえ奪われるという意味において、無権利状態になる」という事なのでしょうか。

●素直とは、教師に素直であって、自分に素直でない、というのである。内申は、今や一人一人の内心を支配する武器になっている。「安心して間違え」「気楽に質問できる」こんな授業が建前だけでなく、本当に実行されている学校、学級、教科活動が今、どこにあるのだろうか。授業は「鍛錬の場」「修行の場」になっている。まるで戦前・戦中の修身そのものである。科学的認識を育てるとか、分かる喜びとかは、ここにはない。あるのは、テスト結果と内申を武器にした主従の関係、絶対服従の関係の構築である。

〇テスト、テストで縛られる子どもたち。しかし、そもそもテストというものは「生徒自身が自分の力」を確かめると同時に、教師が「生徒が、どこで、どのようにつまずいているか、自分の教えたことがどのように子どもの中で理解されてきたかを調査する」ためのものなのである。だから、テスト結果は、生徒自身と同時に教師の教え方の力量が試される調査活動なのである。だから、テスト結果は生徒と教師が合同の責務を負っている調査活動であるはずのものなのである。               

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  No.105
学校風景Ⅱ その2
●転勤になって、はじめての学校での文化祭。そのメインである全校合唱の「うたごえ」練習風景。放課後の体育館に、全生徒が舞台を背にきれいに整列。その前に、立つ教師。一回目の「うたごえ」が終わった。「口があいとらん」「どういうつもりなんじゃあ」「声、出さんか!」「口があいとらん奴は、前に引っ張り出すぞ!」「一生懸命うたっとるもんもおるのに、お前ら、よう平気でおれるのお!」「こんな歌で、伝統が守れると思うとんのかあ」「去年の先輩が泣くぞ!」体育館のあちこちから、飛び交う罵声。響き渡る罵声だけがハモってる。「これが文化を切り開く『うたごえ』指導なんだろうか?」
「誰が、誰によって、誰のためになされる文化行事なのか?」私の中の内心が問いかける。罵声が飛び交う中、体育館の脇に立つ生徒会の面々も緊張気味。ただただ、罵声が静まるのを待っている。そして・・・中央に立つ教師が、再び大声で「もう一回じゃ!生徒会が一生懸命訴えとるのに、こんなんじゃあ、終われんじゃろうが~!」生徒会の仲間は、名前を出されて、びっくりしたような顔して、戸惑っている。2回目の練習が始まった。指揮者の登場。
「礼!」そして、ピアノ伴奏・・・のはずだったが・・・。
「おい!礼!の声が聞こえんのかあ!頭がバラバラじゃあ!こっから見とったら、恥ずかしゅうて、見とれん!」
「もう一回、初めからじゃあ!」
再び、指揮者の登場。そして、ピアノ伴奏。飽くこともなく続く全校合唱うたごえ練習。けなげなのは生徒たち。「学校」の「文化」の名で実行される活動。まるで強制収容所の営みである。でこれで暴動が起きないのが不思議である。
●太陽が容赦なく照り付け、うんざりするような夏の暑さの中、授業中、突然窓を開けた隣の校舎の1年生の教室から大きな声の罵声が聞こえてきた。
「おまえら、どうしてわからんのならあ!」
「・・・」
「どうしてわからんのか聞いとんのが、聞こえんのかあ」
思わず、開けっ放しになった窓に寄り添って、私のクラスの生徒たちは、声のする方を見やった。立ち上がって、移動して窓際に向かうものもいた。
大きな罵声は続く。
「分からんわきゃないじゃろう。なんで分らんのか、言うてみい!」
「・・・」
ヒステリックな声は続く、おもわず窓際の生徒曰はく「先生、あれなんなん、先生って空恐ろしいもんなあ?あれじゃ、誰も頭の中に知恵が入らんでえ“」「目は開いていても、心の閉じる授業。起きていても、頭が寝ている授業」「分かりたい、知りたい意欲は、とっくに萎えている」「分からないのは、生徒だけのせいではない。教師にも責任がある」と思えない悲しさ。
〇「学校はいやな所、学校の先生は怖いものと、子どもたちは親から教えられていた。下級生達には、学校の先生は、世にも恐ろしいものと考えられていた。実際にまた、学校は、子どもたちには親しみのない所であった。」「掃除の時が洪作は一番嫌いだった。自分でも意識しないでぼんやり手を休めていると、そのたびに容赦なく怒られ、いかなる過失も教師は許さなかった。・・・一年生として初めて登校し、初めて小さい教室に座った時「こら!」という大きな怒り声を浴びせられ、教室の前の廊下に立たされたことがあった。
洪作はいかなる理由でそのように罰せられたのか、その原因は分からなった。生まれて初めて、浮世の風の厳しさを知って、震え上がってしまったのである」(井上靖の「しろばんば」)
〇学校は、その設立以来、なんら変わることなく今日まで来ているような気がする。そして、今の時代、形を変えながらも、おかしな風景は、あちこちで日常的に起きている。自立を促し、社会に飛び出す学びを伝えるはずの学校。今、どこか、世間のそれとズレている。
なのに、それらが当たり前になってしまった学校。そして、それを当たり前のように振舞う教師たち。どこか滑稽で悲しく思えてくる。
いつごろから、誰が、誰のために、こんな風景を作り出してきたのだろうか。様々に錯綜しながら生きる道の障壁に耐え忍んでいる子どもたちに、もっといとおしさを持っていいのではなかろうか。子どもたちが、学校で一番長い時間を過ごし、授業を通して教師と生徒が信頼関係を結ぶ基本的な時空であるはずの授業が「明るく、楽しく、わくわくしながら聞ける」授業でなければ、学ぶ力は生きる力にならない。支配―被支配の関係からは、何も生まれない。 つづく

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 No.106 
学校風景 Ⅱ その3
小学生の一人の児童が職 員室のドアを開いた。そし て、直立不動の姿勢で、 「失礼します!三年一組〇 〇です。コンピュータ室の カギを借りるため、職員室 に入ります!」と選手宣誓 のような大きな声を天に向 かってあげた。子どもの賑 やかしい声を拒否するかの ように、整然とした机が居 並ぶ職員室。教頭先生が眼 鏡越しに、ジロリと幼い児 童を顔写真でも見るように なめまわした後、「入って よろしい」と応える。する と、「三年一組〇〇、コン ピュータ室のカギを借りに 職員室に入ります」と鍵板 からカギを取り上げ、帰り際に又「ありがとうござい ました。失礼します」と規 律正しく出ていった。
自由で磊落な風土の中で。 創造力と生きる力を育む学 校。規律と規則で縛られ圧 殺された空気の中で、どん な芽が出て、花を咲かせる のだろうか。
授業終了のチャイムが鳴 る。それでも授業を続けて いる教室もあるが、それで も休憩時間に入ると、校内 は一気に喧噪の中に包まれ る。止まったような空気と 時間が動き出す。教室から 職員室へ向かう教師と、廊 下で特別教室などに移動する生徒や、たむろする生徒 たちと出くわす。教師の定 型化された言葉かけ。 「おい!そこの○○、シャ ツが出とる、ちゃんと入れ んかい!」 「おい!そこで遊ぶな、や かましいじゃろうがあ!休 憩時間は静かに次の授業の 準備をして、じっとしとけ え!」 「おい、おみゃあ、名札を ポケットの中に入れて隠す な!」 「ちょっと待て!おみゃあ ズボンがちょっとおかしい ぞ、こっち来てみい!」 「なんならあその髪は、ちょっ と職員室へ来い!」 「三年じゃろうが、そんな態度じゃ、どこの高校も入 れてもらえんぞ!」 「・・・・・」 次々と飛び交う通りすが りに響く教師の生の声。は やりの言葉かけは「シャツ だし」。水にはじかれる油 のような内面に浸み込まな い教師の言葉かけ、子ども は辟易している。学校にお ける管理は、あらゆる時間、 あらゆる場所で貫徹されて いる。もっと気の利いたしゃ れた言葉かけは思い浮かば ないのだろうか。どんな些 細な違反行為も許さない名 付けて「ゼロトレランス指 導」学校における競争的秩序を守り、徹底する事を最大 のねらいとして、今「ゼロ トレランス」政策が全国の 学校教育現場に導入され、 その徹底がはかられようと している。子どもに「何を してはいけないのか」の細 かいルールが事前に決めら れ、ルールを逸脱すれば、 どんな些細な事でも重い刑 罰が極めて機械的に課せら れていく。新教育基本法の 翌年の二〇〇七年度から復 活した全国一斉学力テスト と軌を一にするように学校 の競争的秩序を貫徹させる ために文部省による上から の動きが作られ、今、枝葉 を伸ばすように全国に広がっ ている。ゼロトレランスは、 権威への服従への教え込み などと言う、まどろっかし いものではなく、「教え込 みなどという人格形成への 働きかけさえ存在しない、 強烈な競争的秩序の効率的 な防衛のための罰を通じた 子どもの行動管理だけ」 (ゼロトレランンスで学校 はどうなる 花伝社)
ゼロトレランスは、学校 懲戒あるいは、生徒指導に 関わって子どもの人間とし ての成長発達保障という視 点が完全に否定されている。 授業妨害には、機械的な別 室指導、対教師暴力につい ては機械的に警察に通報さ れることがルール化されて いる。
今、子どもたちは、この 学校の日常性に戸惑ってい る。そして「学校の当たり 前のくらしに抵抗するもの。 諦めて服従するもの、服従 し、抗う術をなくして閉じ こもるもの・・・」。はみ 出す子は、圧迫感に叫びを あげ、静まっている子は、 それに耐えているように思 えて仕方ない。大人や社会 の作り出すおかしな風景に、 一番敏感に気づき、反応し ているのは子どもなのかも しれない。子どものおかし さを言う前に、教師の、学 校の、更には重苦しい社会 的秩序の空気のおかしさに
気づかなければならないの ではないだろうか。慰めの 言葉もなければ、励ましの 支えもない学校の空気の中 で子どもの見せる様々なサ インに気づかなければなら ない。それに、何といって もこの国の指導者が押し付 ける道徳、「言わず、語ら ず、言い訳ばかりの政治家 なんかに、道徳、道徳と言 われとうないわ〜。あんた ら、何やっとんやあ。」と、 のたもうた中学三年生のた め息が今の学校教育の行方 を示唆してくれている。
「社会秩序を乱したり、反 抗するような性格において も、その責任は個人にある のではない事は明らかであ ろう」(カント) つづく

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  No.107
学校風景 Ⅱ  その4
学校の朝は早い。そして、あわただしい。始業時間の8時30分直前、子どもらは、校門に向かって、突進してくる。そして、8時30分ジャスト、時計を見ながら、教師が門を閉め、遅れてくる生徒に小言を言いながらチェックする。教師だけが朝からがんばっている。
 一方教室では、B4の大きさの型紙に「マニュアル化された」朝の会の段取りを、担当の生徒が「自主的」に読み上げられる。毎日、毎日同じパターンにこだわる見せかけの自主性は一年中、飽くこともなく続く。
「これから朝の会を始めます」「起立っつ!礼!着席!」「健康観察、保健委員、お願いします」「今日の一日の目標を各班で話し合ってください」たいした話し合いもないまま、適当に班ノートに書きこまれ、日直の生徒の「それでは、それぞれ今日の目標を各班、発表してください」に応えて、一班から順番に指名され発表する、「授業中、静かにする」「私語をしないで先生の話を聞く」「掃除を真面目にする」などなど、日替わり定食のようにパターン化された目標が発表される。誰も意識されない目標や点検、毎日同じことが繰り返される。文字だけがノートに積極的に刻まれていく。機械的、画一的な指導の一日の始まり。萎えた空気が朝を支配する。
 単調な朝の空気の中で、突然、日直が「自主ノートを出してください」と言う。すると班長が、班員に自主ノートの提出を求め、班長が「自主ノート」を集め、教壇の上に運ぶ。そのノートの厚みを見ながら「自主ノートを出していない人は、残ってやってください」と、これもマニュアル化されたカードを見ながら日直の生徒が読み上げ、声をかける。
 考えてみるとおかしな風景である。そもそも「自主的」というのは、個々人が自主的に学習するものであって、強制されるものではないはず。それぞれが自主的に提出すればいいはずなのに・・・。元より、自主的に家で学習しても、出さない生徒もあっていいのである。それを「出していない人は、放課後残って提出してください」というのである。まさに自主ノートは毎日出さなければならない「義務的なノート」になっている。いっそのこと「強制ノート」と名を変えればいい、みせかけの「自主性」の貫徹された典型である。自主ノートの提出状況は生徒がチェックし、教師に提出され、閻魔帳に記される。その資料が懇談や内申に反映させるというのである。ここまでくると、もう、あきれかえるしかない。
 まだまだある。本来、生徒自身が主体的にかかわり、活動する場である学校生活を作る各種委員会、学校行事などの実行委員会。しかし、多くの学校現場では、教師が提案、会議の流れを作り、司会者の進行上の言葉さえ決められている。生徒はそれらの「マニュアル」に従って作成された進行表を棒読みしながら会議を進めていく。委員会や実行委員会は「そういう(先生が段取りをしてくれる)もんだ」と生徒も納得し進められていく。だからというわけでもないが、ほとんどというか、全くと言うべきが、大した意見もなく、スムーズに流れていく。よしや、生徒が提案をしても、「そんなん学校出来ると思うか!」「もっとまじめな意見を出せ」と司会者に言われ、結局のところ、教師提案の、従来通りの委員会決議や、学校行事が実行されていく。はじめから子どもたちの自主性は考慮されず、教師主導の下請け機関になっている。
「今年の行事は生徒が主体となった素晴らしい行事でしたね」何ぞと褒められるにいたっては、見た目はいい具合で、一定の感動を作ったとしても「主体となった」とまで言われると「面映ゆそう」なのである。見栄えは悪くても、下手糞でも。もたもたしながら失敗したとしても、自分達で考え、実行したものの方がはるかに感動を生むのではなかろうか。
 人間は「転ばないと立ち上がれないのだし、転ぶから起き上がろうとする」のである。「見かけ」ばかりに気を取られず、全面的に生徒にまかせ、困った時に相談に乗るぐらいの信頼感を持って、教師は見守ればいいのである。学びとは、挑戦しながら様々な困難に向かい力を深め、拡げていく。自分たちにまかせられた喜びと不安の中、困った時には、必ず、教師のところにやってくるのである。 生きた人間同士がもつれ合いながら学びあいながら刻々とうごめく教育現場。マニュアル通りに進む方がおかしいのである。教室に掲示される学校目標の位置、授業初めの「礼の仕方」、授業中の質問や、その受け答え・・・些末なことを含めると枚挙にいとまなしである。教師の名札、電話対応の手順、背広にネクタイさえも義務付ける学校「誰がまだネクタイをしていない」ということさえ、あろうことか校長会で話題になったという。活動的なジャージ姿は、教師らしくないというのだ。マニュアル通りにしておれば、何かが起きた時、説明できるからだそうで「危機管理のマニュアル化」=説明責任と言う名の形式的な指導パターン。教師の自由で創造的な教育活動を保障するという目線はなく、あるのは管理のみ。これで子どもの創造性がそだつはずもない。    

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  No.108
学校風景 Ⅱ その5
三人娘が、廊下でたむろ しながら、大声で楽しそう に話をしている。そおっと、 静かにその背に近づき、大 声で驚かすように「おい! 人生、楽しんどるのお!明 るく、青春しとるなあ!」 と・・・すると、「先生! びっくりするがあ、驚かさ んでえよお!」そして「楽 しいよ、先生。先生も楽し んでよお」 「きのう、運動場で、がん ばっていい汗かいっとたな あ ! !汗がまばゆかったぜえ」 少しというか、かなり調子 に乗って、きざっぽく声を かけてみると「先生!見て くれとったん」と嬉しそう に応える。
休憩時間、廊下の向こうに 他学年の見知らぬ生徒と、 ふっと目があってしまった ので、思わずウインクをす ると、必ずと言っていいほ ど、「先生が、ウインクし た!」と大仰に反応する。 そして「先生、ウインク上 手でねえ、どうしたらウイ ンクできるようになるん」 と言いながら、ウインクを 真似ようと、口元を歪め、 両目をつむり、ウインクし たつもりになって返してく る。 日曜日に、資源回収で出 会ったお母さんの生徒に出 会った。すぐに「昨日、あ んたのお母さんに資源ごみ 回収で出会ったけど、お母さん、優しい目をした穏や かな人だね。あんたも、あ んな素敵なお母さんと一緒 でよかったねえ」と声をか ける。すると、次の日、わ ざわざ職員室に来て「先生、 きのう、お母さんに先生の 言うたら、お母さん、すげ え喜んどったよ。ウフフ」 男子トイレに行くと、見知 らぬ生徒と隣り合わせになっ た。小用を済ませながら 「あんたとは、変なところ で気が合うなあ!」と声を かけてやった。隣に出くわ した生徒は、何とも言えな い顔をしながら、はにかん でいた。後日、PTAの広 報委員会で、見知らぬ保護 者から声をかけられた「先生、この前、うちの息子が、 トイレで先生に声かけられ た事を話してくれました。 『先生って、怖い人ばっか りじゃないんじゃねって』 嬉しそうに話してくれまし た。ありがとうございまし た。」と、お礼を言われて しまった・・・。 チャイムが鳴り始めたの に、ノロノロ歩きながら教 室に向かっている男子生徒 がいた。後ろから「おい! わしと、どっちが速いか、 教室までヨーイどんじゃあ!」 と声をかけた。すると、 「先生にゃあ、負けんで!」 と競争しながら教室に入る。 名札に「古川」と書いた生 徒がいた。私は「古川君かあ、古いはオールドじゃし、 川はリバーだから、』君の 名前はオールド・リバーじゃ なあ」と声をかけた。本人、 この名前がよほどうれしかっ たのか、以来、自分の事を 「オールド・リバー」と呼 んでいるという。 教室から職員室までのわ ずかな時間。さまざまな生 徒とすれ違う。そのたびに、 たわいのない声掛けをして きた。「あいさつ運動」な どと言う恩着せがましく、 形式的な声掛け運動よりも、 通りすがりの罪のない声掛 けの方が、笑顔を引き寄せ、 信頼感を豊かに膨らませて くれる。語りかける機会は、 いくらでもころがっている。 特に、学校の休憩時間は、 互いの気持ちがのびやかで、 ゆったりと和んでいるゆえ に、気安く声もかけやすい。 そんな行き交う関係の中で、 安心と信頼の共感関係が結 びつき、子どもらは、学校 という時空の中で、安心を 育むように思われる。人と 人との関係性は特別な時空にではなく、ちょっとした 小さな時間の中にこそ潜ん でいる。そして、つながる 話題は、明るいトーンの、 たわいもない中にこそ、人 と人との信頼感を繋ぎ、刻 んでくれる。
「シャツが七割、名札が二 割、残る一割髪の毛指導」
と川柳風に語ってくれた中 三の男子生徒。軍律に似た 規律的、機械的規則の声掛 けが消えた時、学校は生き 返る。子どもはいつも心を 開きたいと考えている。そ して、何よりも、躍動的で、 磊落で、自由な空気の中で 育まれたいと願っている。 学校が、ゆっくりと、凍っ た氷が溶けるように、穏や かな風土に変わるとき、ひ とりひとりが、自分の中で 自分らしさを輝かせてくれ る。 「そんな事じゃ、世の中で 生きていんぞお!学校も、 社会と同じじゃ!ちゃんと 規則を守れ!」といつも同
じセリフで叫んでいた生徒 指導担当の教師がいた。確 かに、社会は競争的原理の 中で、金属的な管理に支配 されている。だからこそ、 学校は「自由で植物的な軟 らかさの中で、自分自身で、 自分の姿を開花させる場」 であってほしい、と子ども らは願っている。学校の日 常風景が自由な空気に満た され、人間的復権を目指す 空間に満たされたとき、子 どもたちは「夢と希望を育 む土壌の中で社会に前向き に立ち向かう力が育ち、そ れぞれが、それぞれらしさ のままに歩んでいける。
スピーカーのような金属 的で画一的な語りかけでは 子どもは自分の気持ちを閉 じたままで開かない。弾む 勢いのままに、たわいもな いメッセージで語るとき、 人の言葉は、人の内面によ どみなか浸み込んでいく。 弾む語りは、信頼の糸を紡 ぎ、関係の光を注ぐ。一見、 些細に見える身近な温もり
のある語りに、生きる力の 礎をいただく。言葉かけは、 人と人を束ねる信頼の武器 にもなるし、不信を募らす 武器にもなる。キーワード は、やはり「それぞれらし さを讃え、支えあう」励ま しの目線に立った言葉かけ であると思う。 つづく

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 No.109
学校風景Ⅱ その7
学校の朝は早い。そして、あわただしい。始業時間の8時30分直前、子どもらは、校門に向かって、突進してくる。そして、8時30分ジャスト、時計を見ながら、教師が門を閉め、遅れてくる生徒に小言を言いながらチェックする。教師だけが朝からがんばっている。
一方教室では、B4の大きさの型紙に「マニュアル化された」朝の会の段取りを、担当の生徒が「自主的」に読み上げられる。毎日、毎日同じパターンにこだわる見せかけの自主性は一年中、飽くこともなく続く。「これから朝の会を始めます」「起立っつ!礼!着席!」「健康観察、保健委員、お願いします」「今日の一日の目標を各班で話し合ってください」たいした話し合いもないまま、適当に班ノートに書きこまれ、日直の生徒の「それでは、それぞれ今日の目標を各班、発表してください」に応えて、一班から順番に指名され発表する、「授業中、静かにする」「私語をしないで先生の話を聞く」「掃除を真面目にする」などなど、日替わり定食のようにパターン化された目標が発表される。
誰も意識されない目標や点検、毎日同じことが繰り返される。文字だけがノートに積極的に刻まれていく。
機械的、画一的な指導の一日の始まり。萎えた空気が朝を支配する。
単調な朝の空気の中で、突然、日直が「自主ノートを出してください」と言う。
すると班長が、班員に自主ノートの提出を求め、班長が「自主ノート」を集め、教壇の上に運ぶ。そのノートの厚みを見ながら「自主ノートを出していない人は、残ってやってください」と、これもマニュアル化されたカードを見ながら日直の生徒が読み上げ、声をかける。
考えてみるとおかしな風景である。そもそも「自主的」というのは、個々人が自主的に学習するものであって、強制されるものではないはず。それぞれが自主的に提出すればいいはずなのに・・・。元より、自主的に家で学習しても、出さない生徒もあっていいのである。
それを「出していない人は、放課後残って提出してください」というのである。まさに自主ノートは毎日出さなければならない「義務的なノート」になっている。
いっそのこと「強制ノート」と名を変えればいい、みせかけの「自主性」の貫徹された典型である。自主ノートの提出状況は生徒がチェックし、教師に提出され、閻魔帳に記される。その資料が懇談や内申に反映させるというのである。ここまでくると、もう、あきれかえるしかない。
まだまだある。本来、生徒自身が主体的にかかわり、活動する場である学校生活を作る各種委員会、学校行事などの実行委員会。しかし、多くの学校現場では、教師が提案、会議の流れを作り、司会者の進行上の言葉さえ決められている。生徒はそれらの「マニュアル」に従って作成された進行表を棒読みしながら会議を進めていく。委員会や実行委員会は「そういう(先生が段取りをしてくれる)もんだ」と生徒も納得し進められていく。だからというわけでもないが、ほとんどというか、全くと言うべきが、大した意見もなく、スムーズに流れていく。よしや、生徒が提案をしても、「そんなん学校出来ると思うか!」
「もっとまじめな意見を出せ」と司会者に言われ、結局のところ、教師提案の、従来通りの委員会決議や、学校行事が実行されていく。
はじめから子どもたちの自主性は考慮されず、教師主導の下請け機関になっている。
「今年の行事は生徒が主体となった素晴らしい行事でしたね」何ぞと褒められるにいたっては、見た目はいい具合で、一定の感動を作ったとしても「主体となった」とまで言われると「面映ゆそう」なのである。見栄えは悪くても、下手糞でも。
もたもたしながら失敗したとしても、自分達で考え、実行したものの方がはるかに感動を生むのではなかろうか。
人間は「転ばないと立ち上がれないのだし、転ぶから起き上がろうとする」のである。「見かけ」ばかりに気を取られず、全面的に生徒にまかせ、困った時に相談に乗るぐらいの信頼感を持って、教師は見守ればいいのである。学びとは、挑戦しながら様々な困難に向かい力を深め、拡げていく。自分たちにまかせられた喜びと不安の中、困った時には、必ず、教師のところにやってくるのである。
生きた人間同士がもつれ合いながら学びあいながら刻々とうごめく教育現場。
マニュアル通りに進む方がおかしいのである。教室に掲示される学校目標の位置、授業初めの「礼の仕方」、授業中の質問や、その受け答え・・・些末なことを含めると枚挙にいとまなしである。教師の名札、電話対応の手順、背広にネクタイさえも義務付ける学校「誰がまだネクタイをしていない」ということさえ、あろうことか校長会で話題になったという。活動的なジャージ姿は、教師らしくないというのだ。マニュアル通りにしておれば、何かが起きた時、説明できるからだそうで「危機管理のマニュアル化」=
説明責任と言う名の形式的な指導パターン。
教師の自由で創造的な教育活動を保障するという目線はなく、あるのは管理のみ。
これで子どもの創造性がそだつはずもない。 つづく

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 No.110
学校風景 Ⅱ  その8
今、学校に限らず、社会全体に「マニュアル化」が蔓延している。あらゆる部署で、マニュアル、マニュアル・・・である。そして、人々はマニュアル通りに事を進め、安心し、納得している。物事がうまくいかないと、「マニュアル通り」に進めたのだから「私のせいじゃない」となる。「マニュアル」の不備のせいにして、自己責任から逃れられる。機械やロボットじゃあるまいに、物事に対応する時、マニュアル通りにいかない事の方がはるかに多いはず。マニュアルから外れて判断し、事を進め、何かの不都合が生ずると、すぐに「マニュアルを逸脱した君のせいだ!」と自己責任論が振りかざされて、追及される。
 寅さんシリーズの山田監督は「昔の先生は、立派な生活者だった・・・いくら制度を作ったって仕方がない・・・戦後すぐの時期は管理が行き届かないから、面白い人や、変な人、出来損ないのままで教師になったりした、だから学校も陽気で騒々しくて、ごちゃごちゃしていた。そういう時こそ、個性が伸びていくんじゃないかしら、・・・だから、今のように、きれいに管理された学校じゃ、見た目はきれいだけど、子どもたちにはとてもつまらなくなるのは当然じゃないかな」と。
 本来、憲法に制約される以外、自由であるべき教育活動が、今、「みてくれ」にこだわり、画一化の道を歩んでいる。そして、こうしたマニュアル化された人間模様が、人々の支配に使われ、勤評と言う形で教師の前に立ちはだかり、内心さえ支配されていく。
 上からの規格化=画一化=序列化によって教師支配が貫徹されていく。あたかも教師が児童生徒を支配するように・・・。
 実際、現在の教師は、S・A・B・C・D(サビシイデーと読む=(笑)の五段階の評価で計られ、給与にさえ反映されている。上からの権威と財による支配=被支配の関係。
「画一的な指導の下で序列化され、評価される指導の中で育つ子どもたち。マニュアル化された指導基準を強要される教師群。こんな風景の中で、本当に子どもの発達の保障は実現できるのだろうか。みんな、それぞれが、生きて今ここにいる事を喜びあい、自分らしさのままに仲間と手をつなぎながら生きていこうと前向きに歩んでいけるのだろうか。
 大切なことは、「それぞれらしさを確かめ合える自由な生き方」であるはず。「みんな違ってていいのだ」「君が、きみらしく。あなたが、あなたらしく」と自由と平等の原則に立つ民主主義の風土の中では、「朝の会・帰りの会」「服装点検」や「各種委員会」「学校行事」などが「マニュアル化された規格化」にすがる事から解放され、安心して失敗が許され、モタモタしながら支えられ、責め合うのではなく、許される関係の中から、人間は信頼していいのだという事を学んでいく。自由な空気の中で、「主体的で創造的な、今でしかない、君たちでしかできない」活動が保障され、自律的で、自立的な力を高めながら大きく自分を育んでいく。そして、こうした教育風土の中で、学校自身も大きく変わっていくのである。  当局の弾圧にも似た強烈な指導の下で行われた学校の卒業式、しかし子どもたちは、そんな制約の中にあっても、全員が五つのパートに分かれて、卒業証書を受け取るときのBGMをハンドベルで演奏する事を提案し、その要求が実現されると、私立や推薦で少し早く進路を実現した仲間を中心に、自分達の三年間を思い描きながら、自分達の言葉で綴り、「私たちの卒業式」を作り上げていく。他にも、体育館装飾委員会、うたごえ実行委員会、保護者対策委員会、などなど、思いがけない委員会を勝手に作り、子どもらが動き出す…まさに集団のうねりである。まかせられた不安よりも、より良いもの作り上げて自分たちの卒業式を誇りあるものに仕上げようとする。生徒たちの力の限りを束ねながら(映像がありますので、関心のある方は、是非見てやってください)。  そして、卒業式の最後に、教師のだれ一人として知らされていなかった、ぶっつけ本番のサプライズが始まった。突然、各クラスの代表が、学年の教師の前に走り寄って、一人一人の教師への感謝の言葉を感動的に語り始めるという「勝手な事」をして、教師を泣かせたのである。式後「先生、泣いた?」とイジワル気に聞いてくる。  人間が互いに信頼しあえた時、自由な行動は心温まるドラマを用意してくれる。「子どもは大人が考えるほど子どもではなく、大人は子どもが考えるほど大人ではない」のである。マニュアル化されたみてくれの画一主義からは感動を生まれないし、創造的な人間は育たない。支配|被支配の関係からではなく、自由に解放された人間臭さの漂うヒューマニズムの精神によって貫かれる「自由と平等」の土壌からこそ人間ドラマが豊かに形成される。そんな「民主的な」風土の中で育まれる生きた人間づくり。その事こそ、学校が集団の力を借りて実現すべき姿ではなかろうか。そして、彼らが未来を作る力となってくれる、モタモタしながら支えられ。


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 No.111
学校風景 Ⅱ  その9
 できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げる事ばかりに注いでいた労力を、これからはできる者を、限りなく伸ばすことに振り分ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張ていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいです。それが、「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育と言いにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ」(『教育の論点』文芸春秋)教育課程審議会の会長を担った三浦朱門が学習指導要領の本質を語り、その思想が、改悪された今の教育基本法の底流をなした。
 その日、とある中学校で「習熟度別少人数授業」の公開研究会があった。「県教委、市教委、大学関係者」など、そうそうたる、というか、重々しい人たちが集まってきた。その日、当該学校の一時間目は公開研究授業準備と称して、全校生徒による徹底的な清掃活動。聞けば、昨日の放課後も掃除をしたそうだ。二,三時間目の授業を終えて、四時間目、更に最後の仕上げの清掃活動。そして午後、習熟度授業の該当学級を残して、全員下校。日ごろから、授業確保・授業確保と叫ぶのに、今日はたった二時間の授業を終えただけで、下校と相成った。
 いつ飾ったのか、見たこともない菊の花の鉢があちこちに・・・。どこで頼んだろうか?研究テーマを描いた立派なパネルが校門と体育館に飾られている。学校中のみんなの協力によって(?)まるで正月前のハレの日のようにピカピカになった学校校舎。生徒は、一体なにが始まり、何が起ころうとしているのか、詳しくは知らない。ただ、明日の研究大会は多くのお客さんが君らの授業風景を見学に来るから、しっかり挨拶をしろよ!」と指導を受け、該当学級の生徒には「授業中、しっかり手を挙げて、先生に協力するように」と伝えられている。
 いよいよ「習熟度別公開研究授業」は始まった。教師は全員、名札の着用を義務付けられ、背広姿を着こなしている。その風景だけで、学校の空気は一気に張り詰めてくる。走り回ったり、あちこちで聞こえてくる楽しそうな話声も聞こえず、いつもの賑やかしい空気は消え去っている。いつも、ゆらりゆらりと遅れて授業に臨む教師も、今日だけは、さすがに時間通りに教室に入る。そして、いよいよ公開研究授業のはじまり。
「できる子」「普通の子」「できない子」の三か所に分かれた教室の後ろには、所狭しと公開授業研究会にやってきた見知らぬ先生方や、教育委員会の面々が突っ立っている。もうこの情景だけでも異様である。私は、思わず「よう、こんな雰囲気の中で授業をやっとんなあ!」と隣の同僚につぶやいた。そんな、こんなで授業は進む。日ごろ手をあげたり、質問されたりすることない授業なのに、今日はなぜか、挙手を求めたり、質問を投げかけられている。いつも教卓の前に突っ立ったまま、やたらに板書してノートに写さすだけの授業なのに、今日は机間を回りながら生徒に声をかけている。今日の先生は、どこかおかしい(笑)。まさに、「ハレの日」の「みてくれの授業」である。それとも、こんなピリピリした空気の中で学ぶ姿が理想の授業風景なのだろうか。
 気になるのは、この習熟度授業である。「できる子」「できない子」を分けて公開する授業。保護者にはきちんと説明しているのだろうか。というのも、かつて、参観日に、習熟度授業の公開をした時。『できる子』のクラスは、ほとんど全員の保護者が、「普通の子」のクラスには2,3人の保護者が、「できない子」のクラスには、保護者がひとりも来なかった、と他の学校に勤務する同僚の教師から伝え聞いたことがあった。
 まさに人権問題であると思うが、「それぞれの学力に合わせた丁寧な授業」と言う名のもとに、こんな理不尽な授業形態がまかり通っている。これで生徒が荒れないのが不思議である。そもそも義務教育で「できる子」「できない子」を分けて生まれる学力って、一体なんなん?と問いたくなる。ある若い教師は「習熟度になって、授業中静かになって、やりやすくなった」と言う。別の教師は、「まるで、授業が生徒指導をしているようだ」と嘆息気味に訴えていた。要するに、「できる子クラス」はやりやすく、「できない子」のクラスは、授業にならん、というわけである。
 さて、習熟度公開研究、授業の後に行われた反省会が県教委、市教委、大学関係の講師を囲んで開かれた。そして、討論に入って、昨今の教育界の動きの内容を問題視して、習熟度授業のありようを批判的に訴えながら、質問をすると、講師の准教授から信じられない言葉が出てきた。「これからの教育についていけない先生方は、やめてもらわないといけませんねん」と私から目をはずし、参加者をなめるように見渡しながら強い口調で応えた。大学の教育学に携わる学者の応えに、多くの方がうろたえた。
 公開授業では、教師の創造的な教育活動の展開は話題にならず、「いかに、指導書通りに授業が展開されたか」どうかに終始した。つまり文科省の指導の枠を超えない授業が評価されるのである。重々しい権威主義。そもそも教育活動は「計る事をめざすものではない」はず。
 学校の成績が良かったからといって、その人が、必ずしも幸せの道を歩むわけではない、学校の成績がさっぱりダメでも、大人になって、幸せそうに歩んでいる仲間はいくらでもいるし、クラスの中でハチャメチャに振舞っていた者が社会のために懸命に頑張っている事などは、いくらでもある。そもそも幸せは人さまに評価されるものではない、自分の中で感ずるものである。
 問わなければならないのは、この国に生まれ、この国で未来を描きながら生きていける学力観である。


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 No.112
学校風景Ⅱ その10
「人間の遺伝子が解析され、持って生まれた能力が分かる時代になってきました。これからの教育では、その事を認めるかどうかが大切になってくる。僕は許容せざるを得ないと思う。自分ではどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。ある種の能力の備わっていないものが、いくらやってもねえ。いずれ、就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの遺伝子情報に見合った教育形に変わっていきますよ」は、あのノーベル物理学賞受賞者で教育改革国民会議議長の江崎玲於奈氏が会議で述べた言葉。
 前回の冒頭で紹介した三浦朱門氏の考えと合わせてまとめると、「人間は生まれながらに、高い能力と、低い能力があって、それは生まれながらに決まっている、それを早い時期に見つけて、力のあるものはより高く、低いものはどうにもならないから、早く自分の限界を知って、せめて、能力の高いものを尊敬し、実直=黙って静かに従う=なる精神を養って、分を知り、良き市民として文句も言わずに生きていく、というのが新しい教育の形である」とするのである。その方が、無駄な金も使わずに済むし、経済効率的な教育投資である、と言うのです。つまるところ、「ダメな奴は淘汰されていいのだ」の論理。まさにヒットラーの優生主義そのものである。
 この国は学校教育を通して、人間をかつての「血の序列化」=世襲制=から「知の序列化」によって新しい秩序を作ろうとしている。
 子どもだけではない、大人社会もまた効率、能率、適応力を計られながら、見える化=数値化=によって序列化され、成果を上げた能力の優れたものは高い賃金を得、成果のあげられない非効率的な人間は、不安定雇用でも実直にして居れば、何とか生活できるギリギリの賃金はもらえるという。経済の論理=財の支配=に従属した能力主義を義務教育段階の早い時期から学校空間に作りあげるのが教育改革後の子どもらの姿なのです。
 県教委発行のパンフレット。きらびやかに飛び跳ねる字面。指導基準の一層の明確化=【食べやすいけど身につかない基準。個に応じた発展的な学習の名のもとの習熟度授業。】できん者には、食べやすく身につかないおかゆ授業を。できる者にはより高いレベルを学ぶ姿を見せて、能力別クラスによる優越意識醸成。
 今、各県では中高一貫教育が開設されている。近県の広島では、ついに島の中に全寮制の超エリート校と噂される中高一貫校が、県教委の肝いりで開設されようとしている。多くの予算を注がれ、小学校から能力のあるもの、ユニークの力を持った子ども達を囲い込み、「百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張ていく」人材の育成を狙っている。
 中井正一の土曜日に言う「精神の明晰な探求をごまかす事を言い含め、生活への怯懦を合理化し、無意識に自分たちの明日への幸福を見失う。そして、明日の不幸に自らを手渡しする。それらの事は鎬を削る生活の闘いから仕方なくそうなってきた事ではあろう。といって、だから仕方がないとは言えない。生活とは、その落ち着きの上に、今一歩の鎬を、今一歩の切り込んだ批判を持つことこそ、今ここに生きていることを確かめる」営みのはず。
 今、子ども達だけでなく、大人たちの世界も、未来に対する不透明な生活設計を前に、本来のひとりひとりの「自由と自治を豊かに」拡げる正しい批判精神をはく奪させられている。この国のシステムは、確かな歩みで、人々を保身に走られせ、「物言わぬ国民」から「物言えぬ国民」を作り出している。
 学校は「生きた社会の営みなのである。様々来歴をもった子ども達。みんなそれぞれが育まれた価値観。ドロドロとしながら計れない能力を持った集団。みんな違った人格の群れあう村落なのである。だから互いに学びあえるのである。今、強烈に進められている知の序列化による個別化、習熟度授業などなどの学校の世界は、一人一人が、違いを認め合いながら、それぞれらしさを豊かに拡げ、未来に向かって夢と希望を描きながら生きる勇気を耕す場になっているのだろうか。少なくとも、今の教育が続く限り、見た目の荒れは覆い隠されたとしても、物言わぬ、物言えぬ民主主義の基盤が崩れ「考えなくても生きていける」時代に向かうような気がしてならない。 学校で学びながら身に着けていく学力とは・・・一体、どんな力なのだろうか。少なくとも「できる子」「できない子」を分けて学ぶ空間からは、本当の学力はつかない。
 かつては、クラスの中で、いわゆる「問題児」と言われた仲間がいると、みんなで語り合いながら、集団で考え、行動を起こし、抱え込んだものなのに、今は、朝の校門で追い返し、問題行動があればすぐに警察を呼んでくる。今の教育現場は、問題行動を教育課題としてではなく、秩序を乱すものとして排斥しているのである。学校は警察ではない、教育機関である。問題行動を集団によって解決しようとする取り組みの中で子どもたちは「生きる事」「人を人として受け止める」生きた学びを豊かに深めていくのである。 


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