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忘れ残しのあれこれ ③ 相談ネットワーク設立に向かって 元代表世話人 難波 一夫
仲間の紹介
ここに登場する仲間を紹介しておきましょう。忘れ残りの紹介でごめんなさい。
八木原 藤義さん
彼は、私と同年齢で、高校の数学の教師でした。生活指導の優れた実践家で、古武士のような風格を具えていました。戦争の終わったころ、海軍兵学校に在学していて、学校を行き直し、教師になったのでした。
その彼が、自らの「不登校」の体験を語ったことがあります。
敗戦を海軍兵学校で
ぼくは、敗戦を海軍兵学校予科で迎え、旧制中学校に復学、その後高等商船学校に進んだ。
三年になって「人生」について考えるようになり、哲学、文学書を読みふけった。授業をさぼって寮に閉じこもり、読書と散策に明け暮れた。友だちや先生に相談し、休学を決意し、親には無断で突如帰郷した。母親は、気も動転して、気も狂わんばかり。親の期待を裏切ることが何にもまして心苦しかった。
一年間の休学
しかし、ともかく一年間考えさせてほしいと、親を諦めさせ、休学届を出して働くことにした。
七月から地元の小学校の代用教員として勤めることができた。
十八歳の時であった。その後復学した・・・・と。
内田 喬さん
内田さんは、私よりは若く、当時岡山高教組の委員長でした。その彼が、教え子との交流を「ヘイ!うっつぁん」という一冊にまとめ、それが実に好評だ、話題になっていた頃でした。
教育は悔いときどき喜び
三上満(全教委員長 当時)さんが、「教育とは“悔いときどき喜びだ”なあとつくづく思う」。
「すてきなマフラーを贈ってもらって嬉しくなっていたら、『彼にあげようっと編んだけど、仲がこわれたので先生にあげる』とたねあかしをされる。
子どもとの出会いと別れ。哀歓ほのぼの味わいが身に沁みる」と。
飾り気ない悔悟談
石井淳平(当時 日高教委員長)さんが、
「彼の人柄がそのまま表れたような飾り気のない悔悟談は、ひとの心を揺さぶらずにはおかない。
そこにはどんな子にもやさしく、じっと暖かいまなざしを注いで放さない教師の姿がある。」
と絶賛されていました。
夢をくれ 夢を壊して
卒業す
喧騒の 駅で幾度も
手を握る
欠席を 望む吾あり
秋の風
難波一夫
ぼくの不登校
ぼくは、小学校を四回かわりました。一年と二年、三年生の二学期まで、三年生の三学期から四年生、そして五年と六年、これで四回です。
父の矢継ぎ早の転勤は、子どもにとっても大変戸惑うことばかりでした。嬉しいことはあまりなく、やっとできたと思った友だちとの辛い別れ、それの繰り返しの上の繰り返し。
その上、学校によって違う授業の内容と進度、それから起きる混乱と不安。友だちがいないから聞くこともできず、やりきれない思いの日々でいっぱいでした。
「安芸の海」のように
教室に居づらく、渡り廊下の一隅に掲示されていた電送写真を見て、時間を過ごすことが多かったその頃です。
たまたま、あの横綱双葉山の六十九連勝が安芸の海によってストップさせられらた記事と大きな写真が出ていたのを見たのです。憑りつかれたように、毎日毎日、何回も見ました。そして思ったのです。
大好きであった双葉山が負けたのは口惜しいけれど、勝った安芸の海のように頑張れば、ぼくも安芸の海になれるぞと思い直しました。
二年間の闘病生活
旧制中学校では、学徒動員に駆り出され、シンナーの充満した工場で飛行機を作り、食糧もままならぬ当時の苦しい生活、軍人になる夢の挫折、敗戦後のひどい生活、こうした夢も希望もない毎日の連続でした。時代でした。やがて、病魔に襲われたのです。
それから、二年間の闘病生活。本当にいろいろありました。
今、考えてみれば、この闘病生活の間がぼくの不登校の歴史だと思います。薬石効ありというか、薄皮をはぐように、少しずつほんの少しずつ、元気になっていきました。
どう生きるか
そうなると、今度はこれから自分はどう生きるかです。
まず、学校をどうするのか。行くのか行かないのか。
丁度、学制の大きく変わる時だったので、余計不安が募ったのでした。
診療所の先生が、唯一の教師でした。先生の蔵書を次から次へお借りして読みました。主に、文学書、哲学書で、質問や疑問にも丁寧に答えてくださり、夢中になりました。
時には興奮して発熱して、注意を受けました。読み疲れると、天井を眺めながら休憩しました。
患者第一号の
生徒として
軍医として召集され、過酷なフィリピンの戦線で医療活動に従事され、帰国後は、村の診療所の医師になられ、その患者第一号になったのがぼくでした。
今から思うと、先生も軍国主義と決別して、新しい生き方を模索されていたさ中ではなかったか・・・と推測しています。 なんばかずお
新相談員になって 中山 芳樹
「子育て・教育なんでも相談ネットワーク」の相談員になって約一か月が経ちます。火曜日の午前中と水曜日・金曜日の午前・午後と週三日、行っています。
二十五年ぶりの教育畑ですが、充実した時間を過ごしています。最近感じるのですが、ネットワークに行った日は午後三時から、H病院のナイトケアに参加しています。
ところが、日を追ってこのナイトケアに順応できなくなっているような感じがしてなりません。このことを元相談員であった南雲千代子さんに話したところ「それは当たり前、支援(サービス)する側とされる側という百八十度違う立場をすぐ切り替えるといってもそれは無理」とおっしゃいました。そのことに困惑を覚えている、また迷い混乱している中山さんは敏感な証拠だともおっしゃいました。
しかし、これが今の世の中の現実ではないでしょうか。支援する側は「やってあげている」、される側は「してもらっている」。これはおかしいと思います。互いが一人間として対等な関係、言い換えれば「する側」も「される側」も同等の立場で居ることが大切と思います。どちらの側にも「共に」という感覚が必要です。「共にする共同作業」であってこそ人間の尊厳が互いに守られ、高められていくのではないでしょうか。
とすれば、自然とナイトケアの内容も変わり、「ケアを受ける側」感覚がなくなってくるのではないでしょうか。しかし、このようになるまでは支援者(する側)の旧態から抜け出す新たな感覚と認識が必要となってくるでしょう。
そのようなことを日々感じつつ、「共にする作業」を目指して相談員として成長していくよう元気な限り続けていこうと思っていますので、どうぞ皆様宜しくお願い致します。 なかやま よしき
去年植えし金木犀に花咲きて
仄かに薫る寒露の朝 芳樹
音もなく散りくるもみじ葉手に受けて
妻を待ちいる夕暮れの窓 芳樹
私の一冊
相談員になられた中山芳樹さん。現在はスピーカーズ・ビューローとして、闘病生活の体験を語られています。この本は、彼の体験が詰まった本です。書くことで生きる力、希望に変えているのでしょうか。力強ささえも感じます。「本書は、失うものはすべて失った人の『ありのままの自分で生きる』『弱いままの自分をさらけ出して生きる』、心の重荷に別れを告げたメッセージの記念誌であると思います。今もって苦しみの中におられる多くの方々に『夢を捨てないで』『希望をもって』と語られています。」
本書中、平嶋道子さんの言葉を引用させていただきました。
秋 山
相談ネットワーク設立30周年記念講演会
瑠璃真依子さんのお話に大きな反響が・・・
10月5日、岡山西川原プラザにおいて、子育て教育なんでも相談ネットワーク設立30周年記念の教育講演会と総会が開かれました。多くの方にお越しいただきました。難波先生も久々に、参加者の前でお話をされました。
瑠璃真依子さんのお話は、皆さんが待たれていたテーマで、参加者の皆さんの心に残るものでした。
自分のことを客観的に見つめ、当事者の言葉で語る姿が印象に残りました。子どもの頃のエピソードには笑いも起こるほど、難しい課題でありながら明るく前向きなお話に瑠璃さんの人柄を感じました。
大変たくさんの貴重な感想を寄せていただきました。感想の全部を瑠璃さんに届けて読んでいただいています。
ここでは、一部を紹介させていただきます。
るりさんの成長の過程で「はっ」と気付いた瞬間がちりばめられていて、まわりの子どもたちや友人も同じような思いをしているのではないかと思うようになった。多くの人の中で、一人ひとりにあった支援のできる教育が必要だと思った。寄り添う側にも力が必要。もっと学びたいと思います。 (30代 女性)
発達障害、当事者のお話は興味深く、参考になる話でした。娘も発達障害でうつ病です。26才の大人です。現在アルバイト、婚活を頑張っているので、今日の話を一緒に話し合って希望につながる話をしたいと思います。障害があっても尊い命だと思えたりきっと輝く将来に期待して強く生きていってほしいと願います。本日は、いい講演をありがとうございました。
(60代 女性)
瑠璃先生のお話を聞けて本当に良かったです。
我が子は、小三で、自閉症スペクトラムとHSCを持っています。学校生活に適応障害を起こし、不登校中です。なので、今、オリジナル子育て中。発達障害の子が感じること、見えることを先生の口から教えていただき、わが子に対する理解がより分かりやすくなりました。長男も同様に苦手なことが多々あります。長男のことも同様に気持ちを分かち合えるように子育てをしていきたいと思いました。とても有意義な時間となりました。ありがとうございました。
また、機会があったら、「HSC」(人一倍倍敏感な子)についての講演会を行ってほしいです。発達障害とは違う、集団生活で困っていることがあるので、情報を共有したいです。 (40代 女性)
瑠璃さんのお話を聴かせていただいたのは、今日で三回目です。結婚前、第一子出産後、そして今日。何度きいても、心に残ります。
約16年間保育所に勤めた後、現在、発達支援センターで療育の仕事をしています。重松先生のお話も何度かお聴きしましたが、療育の仕事の奥深さ、難しさも感じつつ、子どもの笑顔、得意顔をみることで、私自身元気のパワーをいただきながら、日々過ごしています。瑠璃さんのことばは心に響きました。また書籍も再び読んでみようと思いました。
難波先生のお話は、私の子育て真っ最中のころに聴いたことがありました。再会できてうれしかったです。また、私もお役に立てることができたらと思いました。
(50代 女性)
発達障害をもつ、4才と6才の子どもがいます。子どもと接していると、行動や特性が理解できずに感情的になってしまうことがあります。今日のお話を聴いて、親として、子どもたちを理解して子供たちにとって大切な今をサポートしていきたいと思いました。ありがとうございました。 (30代 男性)
しんどい中での気づき、行動を起こし、現在母となり周りに助けられながらも、ご自身の努力で毎日生活されていること、本当にすごいこと、誰にでもできることではないと思います。が、自閉症スペクトラム症の娘をもつ私には、希望や勇気をもらうことができました。ありがとうございました。 (40代 女性)
瑠璃さんのお話を聴けて良かったです。
私たちは、情報社会・ITを発展させてきたことと同時にコミュニケーションまでも簡略化してきたのかもしれませんね。具体的に会って伝わるように話すこと、なぜ嫌だと思うのか、相手の思いを大切にすること、これから誰もが生きやすい社会に進むためには大事だなと思いました 。ありがとうございました。
(20代 女性)
総会に先だって、農業法人を経営している、佐藤匡さんの歌を聴かせてもらいました。子育て、農業、彼の生活から歌の雰囲気も変わってきたように感じました。また次回楽しみです。
また、ネットワーク30周年ということで、日高さん、氏平さんのお二人から、「ネットワークとの出会いで自分の人生を取り戻した」「ネットワークが果たしてきた役割やこれからへの期待」など、励みになるお言葉をいただきました。
総会は、会計報告・これまでとこれからを承認していただきました。ご参加ありがとうございました。
三十周年記念誌完成
ネットワーク通信をまとめた記念誌(ネットワーク通信10年の足跡)ができました。ご希望の方はお知らせください。進呈いたします。
今の私を責めないで、未来の私を励まして
生まれ育ち、学びながら育つということ⑧
学校風景 Ⅱ その7
高卒認定フジゼミ講師 志賀 兼允
学校の朝は早い。そして、あわただしい。始業時間の8時30分直前、子どもらは、校門に向かって、突進してくる。そして、8時30分ジャスト、時計を見ながら、教師が門を閉め、遅れてくる生徒に小言を言いながらチェックする。教師だけが朝からがんばっている。
鈴木安蔵を知っていますか? 岡﨑 起惠子
一方教室では、B4の大きさの型紙に「マニュアル化された」朝の会の段取りを、担当の生徒が「自主的」に読み上げられる。毎日、毎日同じパターンにこだわる見せかけの自主性は一年中、飽くこともなく続く。
「これから朝の会を始めます」「起立っつ!礼!着席!」「健康観察、保健委員、お願いします」「今日の一日の目標を各班で話し合ってください」たいした話し合いもないまま、適当に班ノートに書きこまれ、日直の生徒の「それでは、それぞれ今日の目標を各班、発表してください」に応えて、一班から順番に指名され発表する、「授業中、静かにする」「私語をしないで先生の話を聞く」「掃除を真面目にする」などなど、日替わり定食のようにパターン化された目標が発表される。誰も意識されない目標や点検、毎日同じことが繰り返される。文字だけがノートに積極的に刻まれていく。機械的、画一的な指導の一日の始まり。萎えた空気が朝を支配する。
単調な朝の空気の中で、突然、日直が「自主ノートを出してください」と言う。すると班長が、班員に自主ノートの提出を求め、班長が「自主ノート」を集め、教壇の上に運ぶ。そのノートの厚みを見ながら「自主ノートを出していない人は、残ってやってください」と、これもマニュアル化されたカードを見ながら日直の生徒が読み上げ、声をかける。
考えてみるとおかしな風景である。そもそも「自主的」というのは、個々人が自主的に学習するものであって、強制されるものではないはず。それぞれが自主的に提出すればいいはずなのに・・・。元より、自主的に家で学習しても、出さない生徒もあっていいのである。それを「出していない人は、放課後残って提出してください」というのである。まさに自主ノートは毎日出さなければならない「義務的なノート」になっている。いっそのこと「強制ノート」と名を変えればいい、みせかけの「自主性」の貫徹された典型である。自主ノートの提出状況は生徒がチェックし、教師に提出され、閻魔帳に記される。その資料が懇談や内申に反映させるというのである。ここまでくると、もう、あきれかえるしかない。
まだまだある。本来、生徒自身が主体的にかかわり、活動する場である学校生活を作る各種委員会、学校行事などの実行委員会。しかし、多くの学校現場では、教師が提案、会議の流れを作り、司会者の進行上の言葉さえ決められている。生徒はそれらの「マニュアル」に従って作成された進行表を棒読みしながら会議を進めていく。委員会や実行委員会は「そういう(先生が段取りをしてくれる)もんだ」と生徒も納得し進められていく。だからというわけでもないが、ほとんどというか、全くと言うべきが、大した意見もなく、スムーズに流れていく。よしや、生徒が提案をしても、「そんなん学校出来ると思うか!」「もっとまじめな意見を出せ」と司会者に言われ、結局のところ、教師提案の、従来通りの委員会決議や、学校行事が実行されていく。はじめから子どもたちの自主性は考慮されず、教師主導の下請け機関になっている。
「今年の行事は生徒が主体となった素晴らしい行事でしたね」何ぞと褒められるにいたっては、見た目はいい具合で、一定の感動を作ったとしても「主体となった」とまで言われると「面映ゆそう」なのである。見栄えは悪くても、下手糞でも。もたもたしながら失敗したとしても、自分達で考え、実行したものの方がはるかに感動を生むのではなかろうか。
人間は「転ばないと立ち上がれないのだし、転ぶから起き上がろうとする」のである。「見かけ」ばかりに気を取られず、全面的に生徒にまかせ、困った時に相談に乗るぐらいの信頼感を持って、教師は見守ればいいのである。学びとは、挑戦しながら様々な困難に向かい力を深め、拡げていく。自分たちにまかせられた喜びと不安の中、困った時には、必ず、教師のところにやってくるのである。 生きた人間同士がもつれ合いながら学びあいながら刻々とうごめく教育現場。マニュアル通りに進む方がおかしいのである。教室に掲示される学校目標の位置、授業初めの「礼の仕方」、授業中の質問や、その受け答え・・・些末なことを含めると枚挙にいとまなしである。教師の名札、電話対応の手順、背広にネクタイさえも義務付ける学校「誰がまだネクタイをしていない」ということさえ、あろうことか校長会で話題になったという。活動的なジャージ姿は、教師らしくないというのだ。マニュアル通りにしておれば、何かが起きた時、説明できるからだそうで「危機管理のマニュアル化」=説明責任と言う名の形式的な指導パターン。教師の自由で創造的な教育活動を保障するという目線はなく、あるのは管理のみ。これで子どもの創造性がそだつはずもない。 つづく しが かねみつわたしたちは「日本国憲法」は世界の宝だと思っているのですが、憲法は改正(改悪?)しなければならないと言っている人もたくさんいますよね。その理由の一つとして、「今の憲法は敗戦後、連合軍総司令部(GHQ)に「押し付けられた」ものだから。自主憲法ではないからだと言うのです。 確かに、わたしたちの憲法は、アメリカ占領軍の25人が、僅か9日間でその草案を、ほとんど缶詰め状態で作り上げたものではありました。その中には、ベアテ・シロタという女性もいたんです。もちろん、いろいろな国々の憲法も参考にしましたが、日本人の作った「草案要綱」も考慮に入れられました。ただ、政府などの保守系の人たちが作ったものは、明治憲法とほとんど変わらないものだったようで、これはまったく問題にならなかったみたいです。 ところが、鈴木安蔵を事務局長とした「憲法研究会」の憲法草案要綱は、GHQの25人の草案作成メンバーに受け入れられました。 高野岩三郎(初代NHK会長)や森戸辰男(戦後の片山・芦田内閣の文部大臣)などの学者の集まりである「憲法研究会」は、一九四五年一二月二七日に「憲法改正要綱」を発表していました。ここには、「日本国の統治権は日本国民より発す」となっていて、「国民主権」の原則を打ち出していました。天皇については、政治にタッチせず、国政の最高責任者は内閣と定めています。国民は平等であり、差別は許されないこと。健康にして文化的な生活をする権利を持っていること。こうした条項は、まさに現在の日本国憲法そのものではありませんか? ほうらね。これでわたしたちの憲法が、GHQに一方的に押し付けられたものではないということがわかりますよね。 さて、この鈴木安蔵(1904~1983年)さんですが、この方は福島県の、今はけっこう有名になってしまった南相馬市の出身なんです。1926(大正15)年京都学連事件で検挙され、治安維持法違反第一号となって、京都帝国大学を自主退学して、豊多摩(とよたま)刑務所に二年間服役しました。かなりの余談になってしまいますが、わたしは五年ほど前に、鈴木安蔵さんの生家へ連れて行ってもらったことがあるんです。志賀さんというガイドボランティアの方に、3.11の爪痕や、希望牧場といって、被曝した牛たちを保護している所などを見学させていただいた時のことでした。その時の志賀さんのお話で、日本国憲法が、日本人の手によって作られたといってもいいということがよくわかりました。「国家がライオンならば、憲法はその檻だ」と書いて いる人もいます。すごい説明ですよね。つまり、憲法は「国家権力」からわたしたちを守るものだということです。
わたしはこの一文を書くために、何冊か憲法の本を読みましたが、なぜか鈴木安蔵の名前が出てきませんでした。でも、ウィキペディアを見ると、やっぱりいろいろなことが書いてありました。その中からほんの少しだけ抜き出して、貼り付けておきたいと思います。
「以下」、ウィキペディアからの抜粋
鈴木を取り上げた作品2007年(平成19年)の憲法実施60年をきっかけに、日本人の手で民主的な憲法を実現しようとした鈴木と憲法研究会の活動に脚光が当たることとなり、鈴木らをモデルとした映画「日本の青空」が制作・公開された(鈴木を演じたのは高橋和也)。またNHK教育テレビは同年2月10日午後10時から放送されたETV特集第168回「焼け跡から生まれた憲法草案」(90分番組)で鈴木らの活躍をドキュメンタリーで描き、放送した。
(岡山県視覚障害者友の会会報たんぽぼ11月号から) おかざき たえこ
四季の花言葉
ろうばい
ろん(論)より証拠
議論するためには 何も隠さず堂々と証拠を示しなさい
破ったとか 捨てたとか いい加減なことをいわないで
ウソばかりつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ
うそ(嘘)から出たまこと(真)
モリそば カケそばをさくらまつりで食べると
ほんとうのことがわかるかも
ばん(万)卒は得易く一将は得難し
政治家のなかに真に優れた指導者、人物がいないのですかなあ いやいや おりますよ きっと
いっけん(一犬)嘘に吠えれば 百犬大声に吠える
こうして なんやかんや
ウソがホントウにされるのですなあ
総理大臣さま
蠟梅の 花言葉の「ゆかしさ」「慈しみ」は、まだ花の少ない冬期に、そっと黄色い花を咲かせる、ひかえめで奥ゆかしい姿にちなむともいわれます。
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