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昔なつかし『駄菓子屋』 「はなだや」あれこれ 花 田 千 春
ひょんなことから駄菓子屋のばあちゃんをすることになった。義父母の介護と長い教員生活を終え、怒涛のように忙しかった日々から解放され、ゆったりと趣味や家事、地域活動などする予定だった。ところが、不登校の子どもたちの支援をしている「フリースペースあかね」の若者たちの相談に乗っていた夫が、譲り受けた隣の家で彼らの商売の援助をするという。そしていっしょに自分も駄菓子屋をしたいといいだし、つい「いいんじゃない」といったのがはじまりだった。あれこれ準備をして、手作りで改装をし、家具を設置して、仕入れに悩みながらやっとこさで開店にこぎつけた。
駄菓子にカップめんやお菓子にパン、飲み物、調味料。豆腐や卵にハム。トレぺにゴミ袋。近所の人が掘りたての筍やわらびを届けてくれる。ぶどうつくりをしている人から「安く売って」と美味しいぶどうが届く。つり好きの人が釣りの帰りに高知から芋けんぴや文旦を買ってきてくれる。ししとうの苗「あげるけえ売られえ」とご近所さん。若者たちがこだわりの本格コーヒーを豆をひいて淹れる。コーヒー通にもお墨付きもらった味だ。冬はやきいも・じゃがバター、夏はかき氷・ひやしあめ・手作りシソジュース。紙芝居を借りてきて時々上演する。紙芝居舞台は知人が手作りしてくれたものだ。
開店してから一年半。店番をしていると子ども達や近所のお年寄り、知り合いの方などが買い物に来てくれる。その数はぽつりぽつりで、決して繁盛といえるようなものではないが、この店を介した人と人との新しいつながりや交流などもうまれていて、これがけっこう面白い。月一回の朝市では、そうめん流しやギョーザやたこ焼きつくり、すいか割りにライブコンサート、お習字会にランチ付き宿題会などあれこれしている。
「あかね」にきている若者や子どもたちが駄菓子を買いにくる。ときには自分のこころの悩みをたまたま来てた近所のおじさんにうちあけたりしている。夕方は学校帰りの子どもたちがちょっと店をのぞいてから家路に着く。「おかえり」と声かけて手を振る。ソフトの練習の前に菓子を買いによる男子ギャング。ときどき宿題する子も居る。高校生は、数人で学校帰りにやってきてビンコーラをおいしそうに飲んで雑談やスマホに興じている。けん玉や独楽まわしもおいている。知恵の輪をはずした子、けん玉上手の子、キュービック全面そろえた子。子どもたちの天才ぶりには敬服する。
とまあこんな様子で、地域のつながりが薄れ行く昨今にあっては貴重な場かもしれないと思いつつ店番をしている。近所にいてもふだんはけっして顔を合わさない人どうしが、店を通してたまたま出会い話をする。ささやかなゆるやかなつながりを生み出していることは確かだ。若者たちが考えてくれた店のキャッチコピーは「ぶらっと寄れて、ちょっと頼れる『はなだ屋』」。
つながりが薄れた上に貧困がひたひたと押し寄せている。店での何気ない話にもさまざまな問題が見え隠れする。今のとんでもない政治は子どもにさまざまな影を落としている。なんとか歯止めをかけたい思いもわいてくる。おだやかに緩やかに子どもたちや地域の人たちとつながりながら、夫とともにもう少し続けてみようと思っている。
はなだ ちはる
子育て・教育なんでも相談ネットワーク教育講演会&総会
2018年9月1日林病院ひまわりホールで開催されました
二〇一八年度総会に先だって、沢山美果子さん(岡山大学大学院客員研究員)による講演をお聴きしました。演題は「近代家族と子育て~女・男・子どもの関係の中で考える~ 」。
大学院生で結婚・出産されたご自身の体験が、研究の出発点となったそうです。一九七〇年代は、確かに、母性強調・三歳児神話(「三歳までは母の手で」という規範)の時代風潮、母親の責任が協調された時代でした。
それほどまでに強調される「母性」というものは、実は古い伝統に根ざしているわけではなく、明治20年代(一八八〇年代後半)以降、男性は企業や軍隊など家の外ではたらき、労働力再生の場=安息の場」としての「家庭」は、「主婦」である女性が担うものという、性別役割分担が強められるなかで、家庭、とりわけ母親に子育ての責任が負わされる状況がつくられてきたのだそうです。いえ、江戸時代には用いられていた「子育て」という語ではなく「育児」という高級そうな言葉が用いられたのでした。
「赤ん坊博覧会」の例には驚嘆させられました。上位入賞者の母親のコメントでは、共通して、「母の手一つ」で育てたことが強調されていたとか。
カテイ石鹸の広告も近代家庭と「推奨すべき」母親像を象徴しています。挿絵として用いられているのは、「ヴィジェールブラン夫人とその娘」・・・相似形の母子像が、母たちの「育児」「教育」への熱意をますます駆り立てたでしょう。
しかし一方で、近代家族の「育児」観への批判の試みもあらわれます。野村芳兵衛は、農家の出身という体験を踏まえて、「男でも女でも父性と母性の二つの愛の表はれがある」、その両方が「子どもの良き成長」に深い意味を持つ、「(親が)最も自分らしく生きることによって最もその子どもらしく育てるように働きかけること」が大事だと説き、与謝野晶子は、商家の出身としての体験から、「男女協力」の子育てを提唱したそうです。
これは、江戸時代の民衆の子育ての思想を継承する試みでもあったといいます。
江戸時代も庶民には、出産から子育てまで、男女の協力が不可欠であったというのです。そもそも、農業労働は「夫婦かけ向かいによる協働で行われました。
前述の通り、子育ての責任が、家庭だけ、母親だけに負わされるようになったのは近代以降のことであって、江戸時代には社会全体による子育てが当たり前であったようです。
いみじくも、岡山は「捨て子の先進県」だそうで、諸事情で子どもを育てられない時は、やむを得ず「捨て子」という形で「世間」に子どものいのちを委ねたのだそうです。
親、社会が子どものいのちをつないできたなかに今がある・・・噛みしめたい言葉でした。 山本 和弘
佐藤匡さんの 歌とトーク
佐藤さんは毎年ネットワーク総会で自分の気持ちを歌で表現しています。わたしは、総会の度に彼の歌を聴いています。
この五年間で佐藤さんの歌が変わってきています。この間に、家の仕事の手伝いから、自分が主体で農業をやるようになった佐藤さん。結婚、お子さんの成長・軌道にのってきた農業。悩める若者たちとの交流など、生きがいが彼の思いをかえ、その表現の歌をかえているのだと思います。自分自身が、悩みを抱えていた分、そんな若者の思いに寄り添えると言い切る佐藤さん。一生懸命に今を生きている喜びが伝わってきました。
来年の総会でもお会いしましょう
総会には、奥さんと、お嬢さんもきてお父さん(佐藤さん)の歌をいっしょに聴きました。
会津白虎隊を訪ねて 岡﨑 起惠子
私は福島県の出身で、郡山盲学校に学びました。中学までの学校で、今は閉校となり、100人ほどの同窓会だけが残っています。二年に一度集まって、旧交を温めるのですが、今年は6月第3土曜日から、一晩泊まりで行われました。郡山は岡山から千キロ、こんな遠くまで来て、一泊で帰るなんて、どう考えてももったいないでしょう。というわけで、私は19日の火曜日に帰ることをまず決めました。それから火曜日の午前中に福島市の親戚の家を訪ねる約束をしました。残るは間の月曜日。どこへ行こうか?何をしようか?盲導犬テディと共に、あれこれと考えたのですが、なかなかいいアイディアが浮かびませんでした。みんな忙しいのです。私みたいな暇人につき合っているわけにはいかないのです。
宿泊はほとんど東横インに決めています。わたしはメンバーズカードを持っているので、「犬」で断られる理由はないからです。
そんなわけで、月曜の朝は、郡山の東横インで、ゆっくり朝食などしたためて、10時のシャトルバスで郡山駅まで送ってもらいました。
前から会津白虎隊のお墓がある所へ行ってみたいとは思っていました。猪苗代湖や野口英世の生家などと共に、盲学校の遠足などで、何度か行ってはいるはずなのですが、あまり記憶には残っていないので、今度は自分の足で、目的意識を持って、もう一度訪ねてみるのもいいなあなどと考えたのです。
郡山駅で会津若松行きの切符を買おうとしたら、「手帳はお持ちですか?」と訊かれました。距離的に半額にならないことは知っていましたが、とりあえず見せてあげることにしました。「申し訳ありません。単独だと半額にならないんですよねえ…」。ところが、「ダブルきっぷ」というのがあって、二枚買うと少し安くなるということでした。行き帰りにどちらの切符を使ってもいいそうです。
磐越西線の快速でも、会津若松までは一時間以上かかります。若松駅に着いたのは12時ちょっと過ぎでした。JRの方に案内してもらって、コインロッカーへキャリーバッグを入れたのですが、最近のコインロッカーは、ただお金を入れて鍵を引き抜くというものばかりではなく、タッチパネルで操作しなければならないものが多くなってきました。視覚障害者には、自力で使うことができないのです。
JRの方には、お手数のかけついでに、観光案内まで連れて行っていただきました。以前、白虎隊の観光ボランティアがいると聞いていたので尋ねてみると、土・日だけしかやっていないということでした。そんなこと、前もって調べておけばいいものを…。
若松市内には、2系統の観光バスが通っています。「あかべー」と「ハイカラさん」で、若松駅を起点に、時計回りと、反時計回りに循環しています。私はとりあえず「あかべー」に乗りました。これでぐるっと回れば、なんとなく若松市内を観光した気分になると思ったからです。この方法は、二週間前に新潟へ行ったときに覚えた遊びなのです。
ところが、5つ目の停留所で「飯盛山下(いいもりやました)」なんて言うものだから、「あっ!やっぱりここで降りよう!」と、急いで降りる準備をして、とりあえずバスを降りたのでした。なんと無計画で行き当たりばったりなことか…!
ちょうどうまい具合に、バス停の真ん前に観光案内のブースがありました。とてもさわやかな感じのきれいなおねえさんが、盲導犬のテディにお水をたくさんふるまってくれました。白虎隊のお墓は、ここから180段の階段を上がるか、250円でエスカレーターを使うか、旧参道を行くかと、三つの選択肢があります。「180段の階段なんて、私でも大変なんだから、旧参道を行った方がいいですよ。」と、そのおねえさんはアドバイスしてくれました。「私が一緒に行ってあげたいんだけど、ここに私一人なもんで、離れるわけにいかなくてごめんなさい。」とも言ってくれました。とりあえず、両側にずらりとおみやげ屋さんがならぶ道まで案内してもらい、あとはテディと二人で歩いて行きました。おみやげ屋さんが無くなるあたりで、右の方からエスカレーターの案内が聞こえてきました。正面は階段。たぶん左の方が旧参道なのだろうと思いましたが、180段ぐらい何とかなるだろうと思ったので、そのまま上がって行くことにしました。
途中から、宮城県から来たというご夫婦(?)と一緒になりました。山の頂上で、お線香をどこで買ったらいいのか尋ねると、指ぐらいの束が50円で売っていて、お金はそこにあるお盆に入れておけばいいと教えてくれました。無人なのです。その方たちが燃えている練炭で火をつけてくれて、石灯籠みたいなところに備えるのを手伝ってくれました。
「申し訳ありませんが、証拠写真を一枚撮っていただけませんか?」
とお願いして、携帯でお墓をバックに撮っていただきました。そして、その二人はそのまま降りて行きましたが、私は白杖も使って、テディとゆっくり・ゆっくり降りて行きました。
おみやげ屋さんの縁台で、梅のお茶などご馳走になりながら、白虎隊のお話を聴かせてもらいました。明治元年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で、一六・七歳の少年兵たちが、飯盛山の上で、南の鶴ヶ城の方から煙が上がっているのを、落城したものと思い込んで、飯沼貞吉一人を残して、全員自害しました。遺体を動かしてはならぬと言う命令に、村人たちは、夜中にこっそり運び出して、お寺の井戸に隠したそうです。それから七年後に、この飯盛山にお墓を作って、遺骨を安置したということでした。なんともむごたらしい話ではります!二度とこんなことが起こらないようにと、強く願うものですが、70余年前の戦争で、どれだけの若い命が犠牲になったことか…。
私はそのお店で、会津ゆべしを三箱買いました。それからまた歩いて、最後のおみやげ屋さんで、孫の幹のために、五両編成の木製の汽車ぽっぼを買って、無事観光案内のところへ戻ることができました。
観光案内のおねえさんが、階段を上がったと言ったら、本当にびっくりしていました。私が見えないから、みんな驚くのかなあとも考えましたが…。
そこに10人ぐらいの小学生がバス待ちをしていました。仙台から修学旅行で来ていて、班ごとに自由行動をしているということでした。小学生たちと私は、再びあかべーに乗りました。前の方の席は狭くて、テディのために、小学生たちに後ろの席を空けてもらったりしました。私は子どもたちに会えたのが嬉しくて、キャンディーを二袋あげました。一袋はカフェラテでしたが、もう一袋はエスプレッソだったので、「うわあ、苦い!」なんて言わないかなあと、ちょっと心配ではありましたが…。
子供たちは途中でおりましたが、私はそのまま駅まで行きました。お蕎麦屋さんでとてもおいしい手打ち蕎麦を食べたり、小さい「赤ペコ」を買ったり、観光案内の方たちにお礼を言ったりして、帰りは各駅停車の郡山行きに乗りました。一つ一つ駅名を聴きながら、ゆっくり行くのもまた楽しいのです。あの先輩は、ここから盲学校まで通っていたんだなあとか、ここへは遠足で来たっけなどと考えているうちに、1時間15分が過ぎて、郡山駅に帰ってきました。
まだまだ書きたいことがたくさんありますが、まあ、このあたりで止めておきましょう。ただ一つ、あとで携帯の写真を見てもらって、「石碑がたくさんあるんだねえ」などと言われた時、なぜ私はそれに触ってこなかったんだろうと悔やみました。「目的地まで行った!」ということだけで、もうそれ以上、心にゆとりがなかったのだと思います。来年は猪苗代湖畔で、全犬使会の集まりがあるので、もう一度白虎隊のお墓参りをして、今度こそ、全部の石碑に触ってこようと、強く思ったのでした。
今の私を責めないで、未来の私を励まして
生まれ育ち、学びながら育つということ⑧
学校風景 Ⅱ その1
高卒認定フジゼミ講師 志賀 兼允
●「自分で稼いで食べているわけでもない子どもに、下手に権利なんて覚えさせちゃダメ。ろくな大人にならない」(政策委員の百地章)
「新しい時代に対応した技能や、読み書きの能力、教育の水準を持っていないものは、実質上公民権を奪われるに等しいことを知るべきだ。能力に応じて、支払われる物質的な報酬が与えられないだけでなく、わが国の国民としての生活に完全に参加する事さえ奪われるという意味において、無権利状態になる」(21世紀基本構想)
〇「私にとって最悪だと思われるのは、学校が主として、恐怖、力、人工的な権威と言うものを用いる事です。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは、従順な臣民です」(アインシュタイン)
●高校から受け取ってきた一枚の紙が台所の机の上に無造作に置かれていた。何となく目をやると、「警告書」という恐ろし気な文字が見えたので、「こいつ、又、何かやったのか?」と手に取ってみて、驚いた。その中身は、「警告及び通知」Ⅰ:夏季課題について前回通知したとおり、夏の課題を出さなかった人は、課題考査を0点とします。中間のβの得点=課題考査×0.3+中間考査×0.7としますので、得点に大きな打撃を与えることになります。8月20日(月)6時00分まで待ちます。必ず、そこまでに出せない人は、月曜日に残ってすること。出来てない人も、一応、6時の時点で提出してもらいます。Ⅱ:二学期の課題について、課題の取り組みが悪いので、二学期については、課題も成績に考慮します。定期考査の得点=定期考査の素点×提出物の数/課題の数。今回の課題も対象とします。αもβもこの式を適応します。」
まるで、サラ金の請求書である。いやいや、もはや脅迫状である。「なんで勉強するん?」「生きる事、学ぶこと、学校って何するところなん?」時折、少し怒りを込めた言い回しを聞き、訴えてきた理由がこの一枚の紙からはじめて理解できた。自由な精神を拡げ、未来に向かって豊かな夢を描くだろう高校時代に生きるはずの生徒諸君、こんな学校で暴動も起こさず、耐え忍びつつ通う生意気盛りの高校生の姿がいとおしくもなる。 ●帰りのHRで隣の教室から大きな声が聞こえてくる。「宿題出さんもんは、内申に影響するから、そのつもりで・・・」「勉強できんでも、授業真面目に受けておれば、それなりの事がある。なんぼできても、態度の悪いもんは、成績出んからな」これらは、明らかに脅しである。「分からんでもいいから、とにかく提出せえ!」というのである。つまり、提出した形が出来ればいいのである。「楽しくないし、息苦しい授業でも、黙って聞いてくれる生徒」すなわち、従順で実直な精神が求められている。「分からなくて寝ていたり、騒がしくしたりする生徒は」自分らしく振舞うので悪いのである。「分からなくてもじっと黙っている生徒」が求められ「分からなくて、ごそごそ私語をする生徒」は点数が下がるという仕掛けである。そして「わが国の国民としての生活に完全に参加する事さえ奪われるという意味において、無権利状態になる」という事なのでしょうか。
●素直とは、教師に素直であって、自分に素直でない、というのである。内申は、今や一人一人の内心を支配する武器になっている。「安心して間違え」「気楽に質問できる」こんな授業が建前だけでなく、本当に実行されている学校、学級、教科活動が今、どこにあるのだろうか。授業は「鍛錬の場」「修行の場」になっている。まるで戦前・戦中の修身そのものである。科学的認識を育てるとか、分かる喜びとかは、ここにはない。あるのは、テスト結果と内申を武器にした主従の関係、絶対服従の関係の構築である。
〇テスト、テストで縛られる子どもたち。しかし、そもそもテストというものは「生徒自身が自分の力」を確かめると同時に、教師が「生徒が、どこで、どのようにつまずいているか、自分の教えたことがどのように子どもの中で理解されてきたかを調査する」ためのものなのである。だから、テスト結果は、生徒自身と同時に教師の教え方の力量が試される調査活動なのである。だから、テスト結果は生徒と教師が合同の責務を負っている調査活動であるはずのものなのである。 しが かねみつ
中学校道徳教科書を閲覧をして
新日本婦人の会はもともと道徳の教科化には反対です。という前置きをしつつ、中学校道徳教科書の閲覧に岡山県立図書館へ行きました。
各出版社のいじめ問題についての読み物を読んでみました。いじめ問題のことなのに、その項目の最後に少年兵やぼろを着た少女の写真があって、なぜここでこの写真を掲載しているのか意図がわからなかったのです。違う教科書では、いじめを受けていた子が最終的に交通事故で死んでしまい、いじめはしなかったけれど、助けもしなかった主人公は謝ることも友だちになることもできなかった内容のものがあり、何とも言えない嫌な気持ちになりました。挿絵でも、これは小学校の教科書なの?と首をひねるようなものもありました。
小林 幸恵
第一章 ルビアとラント
これは、まだ森と草原がとてつもなく広くこの世界を覆っていた頃の話。
舞台となるのは、澄んだ水が滾々(こんこん)と湧き出る泉を中心に、草原と畑が広がるミッシ村だ。村は小鳥や小動物が住む森に囲まれている。ミッシ村にはルビアという女の子とラントという男の子が住んでいた。
二人は従兄妹で、はやくに父と母をなくして、今ではこの村の村長であるおじいさんと暮らしていた。ルビアはラントのことをまるでほんとうの兄のように思っていたし、ラントはルビアのことをほんとうの妹のようにかわいがっていたので、二人はとても仲良しであった。
ある日、おじいさんがルビアとラントに言った。
「おまえたち、森にある洞窟のことを知っているか。」
二人ともそんなことは知らなかったので、とても驚いた。
「洞窟なんて見たことない。」
ルビアが黄色の瞳をきらきらさせてそう言った。
「俺も。」
ラントもわくわくした様子でそう言った。
「その洞窟にはな、宝が隠されておるんだ。」
「えっ」」
二人は驚きと喜びの声をあげた。
「だがまだ誰も見つけてはおらん。山賊たちでさえな。」
「そうなの。」
ルビアがホッとしたようにそう言った。
「その洞窟はどこにあるの?」
ラントが聞くと、おじいさんは一枚の紙をラントに渡した。
「これは宝の地図だ。」
「えっ!」
ラントは宝の地図を広げてみた。ルビアも隣から覗き込んでいる。
「ほれ、ごらん。ここのバツ印が宝のある場所だ。」
「わぁ。」
ルビアが感嘆の声をあげた。
「よし!俺たちで宝物を探しに行こう!」
第二章 森の宝物
ルビアとラントは、森の中の洞窟を目指して歩いていた。
「ねぇ、まだなの。」
歩き疲れたルビアがしんどそうに言った。
「あと少しだ。がんばれ。」
手元の宝の地図を見ながらラントはそう言った。最初は明るかった森の中は次第に鬱葱(うっそう)として今では薄暗くなっていた。
「ねぇ、おじいちゃんがさ、この森には魔女と魔法使いが住んでるって言ってたけど本当かな?」
ルビアが少し不安そうにそう言ったので、ラントは元気づけるように言った。
「いるとしてもきっと良い魔女と魔法使いだと思うな。」
「そうかな。」
ルビアが少しだけ安心した様子でそう言った。そのとき、
「あっ!」
ラントが声を挙げた。
「何?」
ルビアが驚いて聞くと、ラントが喜びに満ちあふれた笑顔で答えた。
「あそこに洞窟が!」
「ほんとうだ。」
二人が洞窟に近づくと、洞窟の中は真っ暗だということがわかった。そこでラントは、おじいさんが持たせてくれた松明に火をつけて洞窟の中に入った。
「おばけなんか出ないよね。」
ルビアが心配そうに聞くので、ラントが慌てて言った。
「変なこと言うなよ。出るわけないよ。」
「そうよね。」
ルビアはそう言ったが、ラントにお願いした。
「ラント、手をつないでもいい?」
「いいよ。」
二人は手をつないで洞窟の中を進んだ。すると、
「おかしいな。」
ラントは、松明をルビアに持たせ、地図を見ながらそう言った。地図には真っ直ぐな道が宝の場所まで続いているだけなのだが、洞窟の中には道が二本あったのだ。
「どっちに行けばいいんだろう。」
ラントが顎に拳をあててそう言った。
「二手に分かれる?」
ルビアがそう提案したが、ラントは反対した。
「もし道に迷ったら大変だよ。」
「じゃあ、どっちに行く?」
ルビアが聞くと、ラントが「よしっ。」と言って答えた。
「右にしよう。」
「私は左がいい。」
意見が分かれた二人はじゃんけんで行く道を決めることにした。
「最初はグー、じゃんけんほいっ。」
ルビアはグーを出し、ラントはチョキを出した。
「やったー!」
ルビアは大喜びで左の道に駆け出した。
「ルビア、待て。」
ラントは慌ててルビアを追いかけた。
「あれ?」
左の道を奥へと進むと、行き止まりになっていることがわかった。
「だから右って言ったろ。」
ラントがそう言うと、
「こっちだと思ったのになぁ。」
ルビアが残念そうに言った。そのとき、
「あれ?」
ルビアは足元に鍵が落ちていることに気づいた。
「何の鍵だろう。」
ルビアは鍵を拾ってラントに見せた。
「もしかすると宝箱の鍵かもしれない。持ってろよ。」
「うん。」
二人はもときた道を引き返し、分かれ道のところまで戻った。
「こっちには宝箱があるといいね。」
左の道を進みながら、ルビアがそう言った。
「うん。」
ラントは頷いてそう言った。そのとき、小さな声で
「ウェーン、ウェーン。」
と、誰かが泣く声が聞こえてきた。
「だ、誰かいるのかな。」
ルビアは怖がって立ち止まった。
「泣いてるみたいだけど。」
ラントがそう言って、松明を掲げ奥の方まで照らしたが、誰もいないようだった。
「ねぇ、ラント、おばけかもよ。引き返そうよ。」
ルビアは半泣き状態になってそう言った。その時、
「だ、誰かいるの?」
洞窟の奥のほうから小さな声が聞こえてきた。
「やっぱり、誰かいるんだよ。」
ラントがそう言って、洞窟の奥へ進みはじめたのでルビアもそれに続いた。
「あっ。」
そこには真っ黒なネコが座っていた。
「僕、ペセタっていいます。魔女のネコです。」
「えっ、あなた魔女なの?」
ルビアはネコがしゃべったことよりも、魔女という言葉に驚いてそう言った。
つづく
かわのけいこ
川野恵子さんが、創作童話を投稿してくださいました。若くてかわいいお嬢さんです。
な き叫ぶ満員電車のなかの幼児 途方にくれた若い母親はなすすべもなく 泣き顔で途中下車しようとしたな ん人もの乗客が迷惑そうに でもなんとかならないかと気にした ますます激しくなる泣き声 そのときだ 老婦人がひとり母親のそばによって何か話した 幼児を抱きかかえ ゆっくりと話しかけながら 両手でスキンシップをしつづけた
しばらく経って幼児が眠りに入ったのが分かった みんなホッとした そして魔法のような腕前に心から賞賛した 母親のうれしそうな顔
か の女の心のなかは 不安 イライラ 緊張 疲れ・・・で はちきれそうだっただろう
ま ほう使いのような老婦人の腕前・・・その手当ての見事さ 巧みさ そして手のもっている偉大な力
ど うやら幼児が心や身体の不安を感じるそんなときに 触れて 撫でて 擦って・・・手のもつ不思議な力によってよみがえる それは大人もいっしょだよね
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