電話でのお問い合わせはTEL.086-226-0110
〒700-0822 岡山市北区表町1-4-64 上之町ビル3F相談ネットワーク通信 100号記念に寄せて 代表世話人 石井 信行
相談を寄せて下さった方々と、読者の皆さんの支えと諸先輩の力によって、ネットワーク通信は、100号を迎えることができました。皆さん方のお力添えに、心から感謝を申し上げます。 相談の電話を受けるたびに、どれだけ相手の相談内容を理解し、相手の心情に寄り添っているかをテストされていると、毎回感じながら、電話口に出てきました。 すぐに解決できるか、しばらく時間がかかるかは別にして、相手の言葉の中に、解決の芽が必ずあるはずです。そこに気づくことができるかどうかをテストされていると感じています。それができなければ、もっと力をつけて来いということですし、できたとしても、それを相談者に気づいてもらえるかが問題になります。 人間どうしの信頼関係が土台にどうしても必要です。人間修養が問われます。言葉の使い方、知識の幅がいつも問われます。相手への尊敬の念が問われます。 そんなことで、いつもテストされています。なかなか進歩がありませんが、テストを受け続けて、少しは成長したいと願っております。 先輩から受け継いでいる、愛して信じて待つという原点を肝に銘じながら。 今後とも、相談電話を広げていただき、テストの回数を増やしてくださるようお願いいたします。 いしい のぶゆき
声 通信100号 おめでとう!!
相談ネットワーク通信100号おめでとうございます。
ご縁がありましてネットワーク通信に私の作品を載せていただきました。家族も喜んでくれました。ありがとうございます。
これからもみなさんのご活躍を期待しております。
川野 恵子
ネットワーク通信」100号おめでとうございます。一面の文章には、相談員の方々の子どもたちに対する温かい目を感じます。四面以下の他団体の活動紹介には、いろいろ刺激を受けることも多く参考になります。しかし、実は、一番楽しみにしているのは「無謀な世界一人旅」です。見知らぬ国を歩き、感じたこと、考えたことを軽妙に綴っているので、こちらも行った気になり楽しんでいます。一年に一度の「相談状況」によると、相談件数が、特に青少年が少ないのが気になります。常駐のスタッフの方々の地道な活動に支えられていることに敬服しつつ、今後とも続けていってほしいと願っています。
会員 文屋 泉
ネットワーク通信は、すべての子どもたちの幸せ(人間の尊厳)と平和の大切さを一貫して追求されてきました。100号おめでとうございます。ますますの発展をお祈りしています。
まさに今、憲法九条ををかえようとする勢力に負けてはいけない時です。再び戦争の道を歩んでは、子どもたちの未来も危ない。力をあわせて平和憲法を、守りぬきましょう。
毎号の編集後記いつも感心して読ませてもらっています。花の名前を上手に頭文字にして内容もすばらしい。
会員 江木 基夫
ネットワーク通信100号記念おめでとうございます。私も、17年間教育相談にかかわってきたことを誇りに思っています。文化センターができて、運動のはばが大きく広がってきていること、大変うれしく思います。心筋梗塞、脳梗塞と闘いながら、みなさんのご健闘とネットワークのますますの発展をお祈りしております。
元相談員 高田 智長
相談ネットワーク通信100号おめでとうございます。1993年から17年間相談活動に加わった一人として、子どもたちの未来が心配される状況が深まる中で、相談ネットの活動と通信の発展を心から願っています。
元相談員 安東 誠
子どもたちの教育を取り巻く環境がますます悪くなっています。そんな中、相談ネットワークでは、多くの課題を抱えて苦しんでいる子どもたちに寄り添い、一緒に悩みながら子どもの成長を願う「ネットワーク通信」が100号を迎えたことを心から、共に喜びたいと思います。
岡山県人権連では、「部落問題」が社会的に解決されたという今日を迎え、地域にある子どもや高齢者の問題など、住み続けたい地域づくりに向けた運動に舵を切っています。子どもは未来の宝です。地域では、子どもたちの健全な成長を願い家庭・学校・地域が協力して子育てに奮闘しています。そこでの「相談ネット」や「ネットワーク通信」の存在は心強い限りです。200号・・と続くことを願っています。
岡山県人権連 村上雅彦
教育から 自由が奪われる?!
相談ネットワーク 代表世話人 田中 博
二〇一七年三月三十一日新学習指導要領が官報に公示されました。
全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを「学習指導要領」といいます。
各学校では、この「学習指導要領」や年間の標準授業時数等を踏まえ、地域や学校の実態に応じて、教育課程(カリキュラム)を編成しています「学習指導要領」は、戦後すぐに試案として作られましたが、現在のような大臣告示の形で定められたのは昭和三十三年のことであり、ここから国は「学習指導要領」の法的拘束力を強調して、学校現場や教職員に機械的な実施を押し付け、ほぼ十年毎に改訂してきました。
今回の改訂は安倍内閣発足後初めてのことであり、「我が国と郷土を愛する」を前文に書き込み「愛国心」の押し付けを幼稚園段階から強化するなど、二〇〇六年に改悪された教育基本法を全面的に具体化するものとなっています。
また、教育内容・指導方法・評価など教育全般にわたって記述していて、あたかも戦前の国定教科書体制を彷彿とさせます。これでは教育における教員の創造性や自主性が損なわれ、画一的な指導や硬直した指導が押し付けられることになる懸念があります。
本来、教育課程(カリキュラム)編成は子どもたちに希望を育むものとして、それぞれの学校が教職員共同のとりくみで創られるべきものです。さらに学校のことや子どもたちのことを保護者・住民参加で考える場をつくることなど保護者・住民参加の教育課程づくりも課題となっています。
たなか ひろし
前川喜平氏が人権連の講演の中で、教育の自由について語るとき、昭和51年旭川学テ事件の最高裁の判例を引用されました。「学習指導要領を作ることは憲法違反ではないが、国が教育の内容に過度に干渉してはならない。子どもたちの学ぶ権利、学習する権利が根底にある。多数決原理で決まる政治で決めたことを教育に持ち込んだり教育の中身に押し付けたりしてははいけない。学問の自由の中でしか真理の追究はできない。」と。(要旨)
教育から自由が奪われることは本当に大変なことなのです。なお、前川講演を聞き逃された方は、ネットワークにご相談ください。 A
ぼくの本棚① 難波 一夫
木を植えた人
はなしは一九一三年の昔にさかのぼる。
南フランスのプロヴァンス地方の、旅人が一歩も踏み入れぬような山深い地域でのことである。
○ わたしは、その延々とつらなる荒野を歩きつづけて、無残な廃墟に辿りついた。
そこは、屋根が吹きとび、風雨にさらされた五・六軒の家々と鐘楼の崩れ落ちた教会が、昔のようすを物語っていた。
そこで、わたしはエルゼアール・ブフィエに出会うのである。
羊と犬を伴侶にしながら、人生にささやかな喜びを見出すために、不毛の土地に生命の息吹をよみがえらせることを思い立っている彼に。
三年前、どんぐり十万個を植え、そのうちの一万個が根づくことを考えながら、一つ一つていねいに埋めこんでは土をかぶせている彼に。
わたしが、
「もう三十年もすれば、一万本のカシワの木が立派に育っているわけですね」
と聞くと、
「もし神様がこのわたしを、もう三十年も生かしてくださるならばの話だが・・・・、その間ずうっと植えられるとすれば、今の一万本なんて大海の中のほんのひとしずくってことになるだろうさ」
とさりげなく答える。
次の年に、第一次世界大戦がはじまり、それから五年という歳月が経った。
ふと、あの木を植えた羊飼いのことが思い出されて、あの荒れた土地に行ってみた。
エルゼアール・ブフィエは生きていた。生きて木を植えつづけていた。戦争なんぞどこ吹く風とばかり。
そして、十年前に植えたカシワは、私の背丈をはるかに超していた。カシワだけでなく。ブナも、カバも。
第二次世界大戦中も、ただ黙々と木を植えつづけた。
彼に最後に会ったのは、一九四五年の六月で、八七歳であった。
かつての無残な廃墟や不毛の土地は、空気まで変わっていた。木々のさざめき、水のせせらぎ、そして甘い香りのそよ風。
キャベツとバラの花、ネギと金魚草、セロリとアネモネの花。
生気と安らぎが村々にみちあふれている。四七年、エルゼアール・ブフィエは、バノンの養老院で生涯をやすらかに閉じた。
○この物語は実話ではない。
作者のジャン・ジオノは、ある雑誌の編集者から「これまでに出会った、一番忘れがたい実在の人物について」書くように依頼されて、これを書いた。
しかし、これが実話でないことが分かりボツになったものをあらためて出版したもののようである。
世界中で愛読され、大きな感動を呼んだ。
こんな生き方がしたい、この頃の若者の言い方でいえば「こんな人間したい」との思い切なるものがある。
◎木を植えた人
ジャン・ジオノ作
原 みち子 訳
こぐま社
¥918
◎木を植えた男
ジャン・ジオノ作
フレデリック・パック絵
寺岡 襄 訳
あすなろ書房
¥1728
視覚障害者友の会
平和を訪ねる広島の旅に参加して
山口雪子さんを支える会事務局長 重田 雅敏
10月21~22日と、大変お世話になり、ありがとうございました。
超大型台風が接近しており、この風雨の中では、日
程が予定通りには進められ
ないだろうと、東京から一
緒に参加した阿部さんと内田さんの三人で心配していましたが、時に小雨、時に土砂降りの中、何とか予定通りの日程をこなすことができ、本当に良かったと思います。
第一日目のバスツアーでは、大雨の中、呉市内を見学させていただきました。とにかく素晴らしかったのは、『非核の呉港を求める会』の代表で、呉市議会議員の奥田和夫さんが解説に来てくださり、豪雨をものともせず、大きな声で、分かり易く話してくれたことです。
力強い話ぶりからは、決して忘れてはいけない内容と伝えたいという熱意が、しっかり伝わってきました。また当時の様子や社会的な背景だけでなく、行く先々の軍事施設や一つ一つの兵器についても大変詳しくて、この平和憲法下の日本に、今立っているこの前に、そんな物があるのかと、見えないながらも現実の恐ろしさを意識することができました。
戦時中の映画「この世界の片隅で」のシーンが繰り広げられた場所も案内していただいたので、事前に映画を見ておけばよかったと悔やまれました。
昼食で大昔の学校給食で悪名を轟かせたものと同じ形状の食べにくいブリキプレートに盛りつけられたソースカレーライスを食べた後、戦艦大和ミュージアムを訪れました。
博物館の解説者から、膨大な予算を費やして建造したにもかかわらず、完成した時にはすでに時代遅れとなり、無用の長物となっていたという戦艦大和の空しい実像について聴きました。
何のためにこんなものを…。どうして三千人以上もの若い命を…。
このような溶接すら不十分な欠陥のある軍艦や、沈められることが確実だった策戦への出動は、本当に必要だったのか?
基地や兵器にお金や命をかけることへの大いなる疑問が改めて深まりました。
逃れたくても逃れられない戦争の非情さ、嫌でも嫌と言えない戦争の理不尽さ…。そして今もまた、今もなお、ここ呉市に基地や兵器があるということは、非常に残念なことです。懲りずに悲劇を繰り返す人間というものに悲しさを感じます。
一方、広島ガーデンパレスに着いてからの被爆ピアノの演奏会は、心温まるものでした。これがあって良かった。
演奏者の三浦祐美さんが上手いのか、調律の方のお陰なのか。予想よりいい音色だったので、少しびっくりしました。でも、後でピアノに触らせてもらいましたが、傷が沢山あって、ガラスの破片などが刺さっていたと聞きました。
演奏会に続く、その後の懇親会では、みんなで平和の歌を歌って盛り上がりました。参加者が曲を良く知っていて、歌の上手い人が多いことにも驚きました。お陰様でひととき、若いころの思い出と、平和への願いを新たにすることができました。
会の中で紹介された、お二人の原爆二世の方の体験談は、間近で聴く実話だけに深く印象に残りました。長年ずっと被爆者であることを口に出して言えなかったり、産んだ赤ちゃんが次々に死んでしまったり、差別や偏見を恐れて肩身の狭い思いをしたり、逃げる時に助けを求める人を助けてあげられなかったと自分を責めたり、身体だけでなく、心の傷も大きいことを改めて知りました。奇跡的に助かった人間の運命の不思議、加害者だけでなく残された者の責任とは何なのか。軍国主義を止められずに、どうしてこういう悲惨な事態に至ってしまったのか。あの時、なぜ戦争を起こしてしまったのか。今、私たちは何をしなければ…。
「広島のあるこの国で、しなければならないことは、戦の種をなくすこと」。
先人の教訓を生かせず、何もしていない私には、ほんと耳が痛いです。
憲法学者の川崎先生も、三〇年以上学生に心を込めて憲法を教えてきたが、最近は特に、多くの若者たちの憲法への無関心さを聞くと残念でならないとおっしゃっていました。
会終了後は、自室で、池田さん親子と、東京の中丸さんで、ささやかな二次会をしました。池田さんのお父さんのドイツ旅行の話は、とても楽しかったです。
つづく
しげた まさとし
※ピアノの調律師の矢川光則さんは、12年前から被爆ピアノの演奏会を通して平和の種まきをしています。全国46都道府県、そして、海外へも。その矢川光則さんが被爆ピアノの紹介をしていました。演奏したのは、全盲のピアニスト三浦祐美さんです。「折り鶴」「原爆許すまじ」「青い空は」「ヒロシマのある国で」など八曲を熱演。曲と曲との間では歌の意味や被爆ピアノを弾く平和への思いを語っていました。 参加者は、三浦さんの生演奏でうたごえも楽しんだそうです。
アンコールの拍手が鳴りやみませんでした。
A
タロの一日 川野恵子 作
遠くまで来たタロ
ドッカーン!
ゴロゴロゴロゴロ
ピシャーン!
タロは子犬で、まだ雷を知らなかった。
タロは雷から逃れようと、無我夢中でもがいていた。
すると首輪がはずれ、タロは一目散に走り出した。
自分の家から遠く離れた空き地までやってくる頃、雷はどこかへ行ってしまっていた。ただ雨はずっと降っていた。
「びしょぬれになっちゃった。」
タロは土管の中に入ると、プルプルプルと自分の身体を振り動かして身体についた雨を払った。
「寒いなぁ。」
タロは身体を震わせてそう言った。ただ、震えていたのは寒さだけのせいではなかった。気づけば遠く見知らぬところへ来てしまった心細さもあったのだ。
「健ちゃん、迎えに来てくれないかなぁ。」
タロは小さな声でそう呟いた。健ちゃんとはタロの飼い主で小学五年生の男の子だ。とても優しくてタロのことを可愛がってくれている。
「あら、犬だわ。」
声がする方に顔を向けると、そこには緑色の眼の白い猫がいた。タロが黙っていると、白い猫の後ろからグレーの毛に黒い瞳の子猫が顔を覗かせて言った。
「ここは僕らの家だよ!」
「そう、なの?」
タロは少し後ずさりしながらそう言った。
「そうよ。あなたは誰?」
白い猫が聞いたので、タロはおずおずと答えた。
「僕、タロっていいます。健ちゃんが 迎えにくるまでここにいさせてくれ ませんか?」
「タロ、だって!僕と同じ名前だ。」
子猫が驚いた顔をしてそう言った。
「そうなの?」
タロも驚いて言った。
「私はシロ。健ちゃんってあなたの飼 い主ね?ここにいても来てくれない と思うわよ。」
「えっ、どうして?」
「あなたがここにいること、健ちゃん は知っているの?」
「うううん」
子犬のタロは首を横に振ってそう言った。
「だったら自分で家に帰らないと。」
シロはそう言ったが、子犬のタロは 首を振った。
「どこから来たかわかんないよ。」
「大丈夫。犬には帰巣本能があるんだ から。」
「きそうほんのう?」
「どんなに遠くても家まで帰れる能力 のことよ。」
「でも・・・」
と、言いかける子犬のタロに、子猫のタロが目をキラキラさせて言った。
「どんなに遠くても帰れるなんて、す ごいね。鼻を使って帰るんでしょ。」
「う、うん。」
子犬のタロは自分の鼻を信じてみようかなと思った。
「じゃあ、僕行くよ。」
そう言った子犬のタロに、シロが言った。
「ちょっと待って。」
「何?」
「これ、少しだけど一緒に食べましょ う。」
シロはそう言うと、ソーセージをくわえて子犬のタロの前に置いた。
「いいの?」
シロと子猫のタロが頷くのを見て、子犬のタロは夢中でソーセージを食べた。
「美味しい。」
子犬のタロがそう言うと、シロと子猫のタロも一緒にソーセージを食べ始めた。
「ごちそうさまでした。」
子犬のタロがそう言うと、シロと子猫のタロも続けてそう言った。
「また会えるといいね。」
子猫のタロがそう言った。
子犬のタロは頷くと、土管を出た。小雨になっていたが、まだ雨は降っていた。
「じゃあね。」
シロがそう言うと、子犬のタロは深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございました。」
子犬のタロは、家に向かって走り出した。空き地を出てどんどん走り、町中まで来たタロはまだ走り続けていた。
ザーッ
小雨だった雨は、また雨足を強くしていた。
ブーン
通りすぎた車に乗っていた女の子が指を指して叫んだ。
「わんちゃんだ!」
「ほんとう?」
女の子のお母さんがそう言った。
「まだ子犬だったよ。」
「昨日の夜は雷がすごかっ たからなぁ。もしかする と、どこかから逃げ出し てきてしまったのかもし れないな。」
運転していたお父さんがそう言った。子犬の姿はもう見えなくなっていた。
「わんちゃんが無事に家に 帰れますように。」
女の子はそう祈った。
つづく
かわの けいこ
今の私を責めないで、未来の私を励まして
生まれ育ち、学びながら育つということ⑧
学校風景 その3
高卒認定フジゼミ講師 志賀 兼允
私の学校では、毎年三年生が「グッド・バイ・マイ」という演劇を実行していた。そして、ヨーコは文化祭が終わる度に「先生、私にグッバイ・マイの緑子をやらせてえね」と懇願気味に訴えていた。
小野川州雄作の「グッド・バイ・マイ」は、生命の尊厳と生きる意味を深く考えさせられる秀作で、次のような筋書きの脚本であった☞舞台は胎内の話。まもなく生まれる予定の三人の子どもらが、生まれた後の世界に夢を描きながら、はしゃいでいる。そこに「生まれてすぐコインロッカーに捨てられる運命」を知ってしまった緑子が登場。誕生を心待ちに待っている「黄郎、青太、桃子」の三人に向かって「なんでそんなにはしゃいでいるの?生まれたからと言って、皆が幸せになれるわけじゃないのよ。あんたたちの未来がどうなるか、そこにいる老人に聞けばわかるよ」と告げ、去っていく。
三人は自分の未来について知る事に不安を感じ、戸惑いながらも、好奇心に耐えられず、思わず自分達の未来を聞く事になる。そして生まれ行く自分達の未来の厳しい運命を知ってしまう。三人の生まれてからの運命は「黄郎は両手がないまま産まれ」「青太は秀才で友達のいないまま、ある日、受験勉強に疲れてビルから飛び降り」「桃子は、暴走族のバイクに乗り事故にあう」という、生まれた後の運命の一端を知る事になる。
自分の未来を告げられた三人は生まれ出る事に大きな不安を憶え、悶々と葛藤する。生まれることなく溶けてしまう黒い門の入り口に向かうべきか、それとも生命をいただく地上に続く白い門に向かうべきかと・・・
その時、老人から「緑子!誕生の時が来た!」との通告。「生まれてすぐ、コインロッカーに捨てられる運命」が待っている緑子。「生まれたって、不幸が待っているだけ、生まれる前に、溶けてしまえば楽になる」と誘われ、黒の門に向かうが「未来の運命は一部であり、すべてではない。運命は自分で切り開くもの。ロッカーに捨てられても、誰かが気付いて助けてくれるかもしれない」と白の門の使者や老人の声に励まされて、白の門を通って生まれていく決意し、白の門をくぐって行く。
しばらくして地上から生まれすぐの緑子の大きな泣き声を聞き「緑が泣いている、緑は生きたんだ、精いっぱい生きたんだ」と狂喜するが・・・しばらくするうちにその泣き声は途絶え緑子の生命の糸が切れてしまった。
緑子が死んでしまった事を知った三人は再び悶々とするが「緑は生きたんだ、たったわずかな時間だったが、精いっぱい泣いて生きようとしたのだ」と絶望的な運命に立ち向かった緑子の泣き声に励まされ、それぞれが自分で運命を切り開く道を選び、次々と白の門に入り、地上に向かい誕生していく。
最後に、黄郎が白い門に入る前に「両手のない僕をお母さんは悲しむ?」と老人に聞くと「一度も悲しんだ事はない」と告げると観客に向かって自分の両手いっぱいに手を広げ、左手をゆっくりみつめながら「グッド・バイ、マイ・・・」と言いながら幕が閉じていく」・・・
ヨーコは、一年生の時から、この舞台に立ちたいと願っていた。私は、彼女は必ず中学校最後の文化祭、三年生の演劇「グッド・バイ・マイ」のオーディションに姿を見せるという確信に近い予感を持っていた。 つづく しが かねみつ
無謀な世界一人旅 ⑲ ~帰国の途に就く!~ 相談ネットワーク 正保 宏文
ミュンヘン空港ラウンジにて
今朝は、レジデンツ美術館へ行った。およその場所は、地図で分かっていたが、正確な位置が分からない。何人かの人やポリスにきいてみたが、わからなかった。あまり有名な美術館ではないのであろう。犬も歩けば、美術館にあたるで、やっとの思いで到着。部屋数が170以上もあるというが、WCが極めて少なく、各部屋はすべてと言っていいくらい続いており、廊下を間仕切りした感じである。確かに、調度品や美術品により支配階級の権威をそこに見たものの、生活が真に豊かであったのか疑わしい。普通に考えても、生活するのが不便である。その点、庶民の家ならば、トイレに行こうと思えばすぐ行ける。お城には、1FにしかWCはなかった。有り余るほどの富を手にしたものが幸せになれるのか、小生にはよくわからない。それにしても、外国の建物はでっかい。エントランスは早めに確認しておくべきだとつくづく思った。
旅に出るまで、大原美術館のことを『世界の大原』と考えていたが、それは、蛙のたわごとであった。もう二度と『世界の大原』なんていえない・・・。残念!外国の美術館のすごさは、これでもかこれでもかと名画が目白押しなのだ。その数たるや言語に絶する。大原美術館は、日本ではすごいと思うが、世界の美術館に比べれば、・・・であった。もちろん、それで大原美術館の価値が下がるというのではないが・・・。
帰国の途に就く
ミュンヘンからデュッセルドルフに飛んで、いよいよ帰国の途に就くことになった。デュッセルドルフのラウンジではなんと読売新聞が置いてあった。久しぶりに見る日本の活字が懐かしく、うれしくもあった。帰りの飛行機の中では、失敗してはならないと自重して、ワインは控えめにした。
成田空港に到着し、京成電鉄で羽田に向かった。車窓から見える日本の景色、平凡だけど美しいと思った。手賀沼のずっと北の方に筑波山が見えた。初めて見る筑波山であったが、富士山のような形をした山は、筑波山だと勝手に思ったのだ。これが、我が故郷、日本だと思った。日本語が使えると思うとひと安心であった。そして何かしらわからないが、『やればできる』という変な自信にも似た気持ちをもつことができた。
たった22日間の旅であったが、小生にとっては、貴重な経験であった。今回の旅を終えて思ったことは、人間って素晴らしいということであった。困ったときに手助けしてくれる天使がいることが分かった。確かに小生から財布を掏った悪い奴もいたが、それ以上に、小生を助けてくれた人がたくさんいた。特に、中国人、韓国人の人たちに感謝したい。日本人の中には、彼らをさげすむような人たちがいるが、とても寂しいことである。茶道の世界一つ取ってみても彼らの祖先が焼いた茶碗が国宝や重要文化財として燦然と輝いている。茶道の世界には醜い差別はない。よいものはよいとする世界なのだ。
今後もし、日本人がグローバルな世界に生きていくというのなら、将来、北朝鮮を含めた北東アジアの人々が、平和共存できるような地域共同体を作っていくことを考えなければならないと思う。今の安倍政権は、平和外交を追求するのではなく、北朝鮮からミサイルが飛んできたらどうすればよいとかの宣伝をテレビで流している。(2017・6現在)圧力をかけることばかりを口にする。これでは、国民の恐怖をあおるだけである。情けない政府に怒りを感じる。。
話が脱線してしまったが、今回の世界一人旅でも思ったことだが、すべては、足を一歩踏み出すことから始まるということだ。英語もドイツ語もフランス語も話せない小生が、若気の至り(笑)で各地を回って来ることができたのだから、人生は、楽しい。多くの人は、基本的に保守的である、足がなかなか前に出ない。一歩足を踏み出すのは、大変な勇気がいる。小生は、いつでも一歩踏み出すことのできる人生を送りたいと思いながら生きている。旅だけでなく、人生の節目節目で、足をどう踏み出していくのか、「最初の一歩」が肝腎だといつも思っている。今の生活に満足することなく、次の「最初の一歩」をどう踏み出していくのか、今考えているところである。
最後になりましたが、「無謀な世界一人旅」に最後までおつきあいいただきましてありがとうございました。小生の拙い旅日記がみなさん方の人生の旅に何らかの糧となれば幸いです。 完
しょうほ ひろふみ
旅の友2点。上は、背中に背負って22日間持ち歩いたリュックサック。これ一つで世界旅行ができる!
右は、コンパス。どこに向かっているか方角が分かる小さくても最強のアイテム。
は |
つ春近く 福寿草の花
色あたたかく いま あなたに贈る
おめでとう「ネットワーク」
な |
かまと懸命に歩いてきた三十年
細いくねくねしたでこぼこの暗い道
松明のように前を照らしてくれた通信
振りかえれば汗をかき頭もかき恥もかいた
その日々 ずっと忘れない
ひ |
ゃく号までの過ぎ去った事々をなつかしむ
思い出は帰らずとも前に向こう
い |
まこそ先人の残した足跡を踏み越え
新しい一歩を踏み出すとき
ら |
い年はその出発点
知恵と力を集めよう
ぎ |
らぎら光るよりも
いぶし銀のような通信を
百号に乾杯!
〒700-0822
岡山市北区表町1-4-64 上之町ビル3F
TEL.086-226-0110
FAX.086-226-0110